びーの独り言

どこいくの?どっか。

2023/01/10(火)「踵痛」

 痛みが酷かった右踵に湿布を貼って寝た。今朝は少しマシになったような気がしたが、歩くとまったく変わらなかった。
 通勤の時にまともに歩けなかった。下り階段は難儀した。歩くという基本動作の一歩一歩が痛い。まるで足が自分の足じゃないみたいにギクシャク。帰りはもっと酷くなってるような気がした。
 調べると、基本は自然治癒で、何ヵ月もかかるらしい。まさかこんな酷いことになるとは。知ってたら自重したわorz。

2023/01/09(月)祝「愛知」

 12泊13日の旅も今日で最後。あとは帰るだけだった。起床は640。天気は良くて、関ヶ原も大丈夫かな?朝食はカールのうす味。ブログ修正後、給油。出発は750。
 懸案の関ヶ原は大丈夫だった。悩むくらいならチェーンを用意した方がいいのかも?840、守山PA。寄り道のルート確認。9時、出発。豊田東IC下車。岡崎へ向かった。
 940、瀧山寺(たきさんじ)。以前買った本で仏像がたくさん紹介されていて気になっていた。
 宝物殿には、彩色された三体の仏像があった。観音菩薩立像、梵天帝釈天。ご住職によれば、鎌倉時代の運慶の作。観音菩薩の身長は源頼朝と同じで、体内には頼朝の遺骨が納められているらしかった。これは瀧山寺と関係のある寛傳という僧が頼朝といとこだったためと考えられている。ここの住職はなかなか面白い人だった。
 本堂のご本尊は秘仏だったが、脇侍の日光月光、十二神将重要文化財だった。特に十二神将は個性的で、甲冑を着けてないものや、表情がコミカルだった。
 11時、出発。下道を西尾に向かった。
 12時、金蓮寺国宝弥陀堂。これで国宝の阿弥陀堂8箇所をコンプリートした。静かな趣のある建物だった。阿弥陀三尊が鎮座していた。内陣の柱は後方に2本だけ。とても雰囲気がいいお堂だった。1225、出発。
 音羽蒲郡ICから名神三方原スマートIC下車。
 1340、さわやか浜松有玉店。2回目。旅の始まりと終わりにさわやかw。50分待ち。だよね~。ここは車の中で待ってもよかった。
 待ち時間を利用して隣にあった杏林堂薬局へ。ランニングを止めてから、足が左も右もいろいろ痛くて、特に右足の踵が痛くて着地する度に痛みが走り、足を引きずっていた。何日か経ったけどまったくよくなってる感じがしなかった。湿布を貼って少しでもなんとかしたかった。
 1450、再びさわやか。ようやく席に案内された。今回はハンバーグとステーキ、ライス大盛を注文。今回は、ハンバーグもステーキも肉汁たっぷりで、激うまだった。このレベルだったら近所に欲しいわ。1535、出発。
 三方原スマートICから東名。食後で眠くなったので、1620、日本坂PA。お腹も痛いけど、何も出ず。1710、出発。
 1755、駿河湾沼津SA。ガソリンを入れたかった。それから先に25kmの渋滞があったので、出すものを頑張って出した。給油後、1840、出発。
 21時に無事に帰宅。おじさんのところに着いたことを電話した。あとは片付け。洗濯したり。
 今回の旅行は事故もなく、大成功だった。今回は九州の半分を回った。国東半島の仏像、日向の日本神話など、新しい発見があった。博物館や廃線跡をあまり回れなかったので、またそのうち行くことになるだろう。
 車中泊をしてると、とても自由だった。好きなところへ行って、好きなものを見て、好きなところで寝た。やってることは松尾芭蕉奥の細道の現代版だと思っていた。また九州には種田山頭火の句碑がいくつかあった。山頭火みたいに放浪しながら暮らせないもんかな?

2023/01/08(日)「京都」

 起床は635。SAは周りにエンジンをかけてるトラックが多くて少し騒々しかった。PAにした方がよさそう。朝食はカールうす味、ブログ修正後、出発は810。すぐに給油。
 1050、吉備SA。疲れたので休憩。1105、出発。行くつもりはなかったけど、せっかくだからミープルに行くことにした。新名神に入り、京都南IC下車。
 13時半、十条のコインパーキング。地下鉄十条駅から四条駅まで。人吉で買った「ウンスンカルタ」の説明書を読んだ。とてもややこしかった。歩いてミープルへ。今日ミープルは突然バイトの人が来なくなって臨時休業になった。Uさんが外で待っていた。一緒にブレスピに行った。お腹ペコペコだったので独りで、1425、なか卯
 ブレスピは2回目。満員で活気があった。知らない人と同卓するなんて、昔のミープルみたい。Mさんが他のお客さんとゲームしてた。終わるのを待ってる間、「ウンスンカルタ」の説明書を読んだ。ネットで調べたりしたが、いまいちわからなかった。実戦投入は次回に。
 7人で「セブンワンダー」「タイムボム」、店長と常連さんとMさんの4人で「アグリコラ」。ミープルとカードが違った。一人で来た若い女性を入れて「インサイダー」「スプレンダー」「ポイントサラダ」。
 22時に撤収。帰り際にお店の女性に話しかけられた。「また来て下さい」と言われた。ミープル派だし、ボードゲームよりも友人に会いに来てるだけだからなあ。でも、こういう声かけは好感が持てた。
 地下鉄で市役所前駅から十条駅へ。またコインパーキングがわからなくなったりw。600円。23時、出発。コンビニで体制建て直し。京都南ICから、凍結が怖いのでだらだらと80km/h走行。雪が降るとイヤなので関ヶ原を越えたいと思ったが、眠さには勝てず。020、多賀SAまで。
 今日のブレスピは新鮮だった。新しい人との交流には懐かしさを覚えた。老け込んでる場合ではないな。

2023/01/07(土)「佐賀」

 おじさんとこで一日中テレビを見て過ごした。NHKは結構面白いなあ。近くのイオンで昼食。イオンの中を散歩した。ここではなんでも揃いそう。田舎だと思ってたけど、便利になったもんだ。17時半、出発。次はいつになるだろうか?
 せっかくここまで来たのだからミープルに寄ることにした。長崎道を佐賀大和ICから九州道大宰府IC、九州都市高速に入って、天神を目指した。天神を車で走ってるのは不思議な感覚だった。18時半、コインパーキングに停めたら、30分600円!
 カフェミープルに行くとお客さんはいなくて、店長さんだけだった。近況を報告して、さっさと撤収した。
 1920、出発。1時間で1200円!すぐに給油。九州都市高速のどこを走っているかわからなかった。九州道に入り、中国道から山陽道。2120、下松の佐波川SA。セブンイレブン吉野家があった。
 今日は旅行から離れて久しぶりにのんびりした。明日からは帰るだけだ。雪がなければいいが?

2023/01/06(金)年休「島原」

 起床は605。朝食は昨日道の駅で買ったチョコチップパン。手作りパンっておいしいなあ。普段から手作りパンにするのもいいかも?ブログを修正後、715、出発。
 時間が早くて施設が開いてないので、まゆやまロード。眉山を一周するコースをドライブした。空は雲って靄がかかっていた。そのためあまり景色はよく見えなかった。ひときわ高い山が平成新山だった。火砕流が起きた時にできた山だった。
 雲仙温泉に向かった。大学友人Sが教えてくれた地獄を見に行った。山道をぐねぐね走っていると、どんどん標高が上がっていった。道端には雪が残っていた。道路が凍ってるところがあった。一度後輪がツルッと滑った。地獄までたどり着けないかもと思った。開けた場所に出た時はホッとした。
 835、雲仙温泉古湯駐車場。300円。歩いて地獄へ行った。
 850、温泉神社。道には煙が立ち込めていて、硫黄の臭いがした。隣には八万地獄があった。八万地獄は、地面は真っ白で、ぼこぼこと蒸気が出ていた。こういうのは恐山や硫黄山で見たなあ。八万地獄は道を工事していて、奥まで入れなかった。
 855、清七地獄。雲仙には地獄がたくさんあった。遊歩道を歩いていると、雀地獄、お糸地獄、大叫喚地獄
邪見地獄・・・地獄だらけ。どこも八万地獄と一緒だった。945、出発。
 1025、島原城。駐車場は石垣の内側にあった。330円。島原城は5層で破風がない独特の構造だったが、5階の工事をしていて、城全体がシートで覆われていた。シートの外側には高校生がデザインした島原城が描かれていた。前に見た姫路城と同じパターンだった。城の中はキリシタン関連と歴代城主の展示があった。とても詳細で分かりやすかった。城の規模は大きく、お堀も石垣も立派だった。譜代大名だからだろう。
 1220、出発。島原半島を時計回りに海岸沿いを一周することにした。ここには島原鉄道加津佐まで走っていたが、末端区間である島原港から加津佐は廃止になっていた。途中何ヵ所も路盤やガーター橋を目撃した。国道を走ってて思ったのは、そこそこ家があったのに、廃止になったのか?
 1320、原城跡。ここは島原の乱天草四郎が率いる一揆軍が籠城した場所である。最終的には兵糧攻めにあい、全員が皆殺しになってしまった。島原半島の6割が参加したとのこと。日本の歴史上異例の戦いであった。
 原城は海に面した丘の上にあった。今は石垣が所々あり、草が生えてるだけだった。海側の石垣は工事していて近づけなかった。丘には印象的な十字架のモニュメントが立てられていた。かつてここで凄惨な戦いがあったと思うと、まさに「兵どもが夢のあと」であった。1420、出発。
 有馬キリシタン遺産記念館。キリスト教の布教から弾圧までを説明していた。前に長崎の大浦天主堂で見た説明は隠れキリシタン中心で、ここのはそれより前の布教の時の話が多かった。アレッサンドロ・ヴァリニャーノがミリナリヨを有馬と安土に作り、天正遣欧少年使節を派遣した。この話が日本の歴史上、他とは違うものに感じられるのは、外国の影響を色濃く反映しているからかもしれない。そして、結果的にこれ以上ないくらい最悪の結果を迎えたことが時代の流れと虚しさや儚さを感じずにはいられないのである。1540、出発。
 1550、島原鉄道加津佐駅跡。ホームはそのまま残されていた。路盤を自転車道にするための工事をしていた。唐突に線路は途切れていたらしく、コンクリートの車停めがあった。説明書きも何もなく寂しい駅跡だった。
 加津佐の先は、崖の下にロックシェードが続く険しい道となった。これでは島原鉄道が安心することは不可能だったろう。海の景色は靄に覆われていてすっきりしなかった。
 小浜温泉が出てきた。雲仙温泉のようにあちこちで地面から白い蒸気が上がっていた。
 16時半、「くまや弁当」。大盛りで有名な弁当屋さん。ここまで昼食を食べずに我慢したのに、休みだったorz。   
 長崎に行くこともできたが、もう旅行はお腹いっぱいになっていた。佐賀のおじさんのとこに顔を出す約束をしていたので電話した。19時に行くことを伝えた。
 長崎道を諫早ICから佐賀大和ICまで。途中で50km/h制限があった。ウソだろと思った。おじさんの家にはすんなりと到着した。2年ぶりだった。こたつでゆっくりしてテレビを見た。いとこも来てくれた。久しぶりに布団で寝た。
 今日は島原を駆け抜けた。ちょっと靄がかかってたのが残念だった。どうやらPM2.5らしかった。久しぶりにその単語を聞いた。九州では日常的に被害に合っているのか?

2023/01/05(木)年休「人吉」

 起床は555。寒くて丸まって寝ていた。今回で一番標高が高いから仕方ない部分はあるが、朝方は特に寒かった。調べると標高700mでマイナス3℃!リアのガラスは凍っていて、路面は白かった。今回の旅行では厚手の靴下を持ってくるのを忘れた。だからか足元が朝方に冷えることが多い。レッグウォーマーを買わないとダメだな。道路が凍結してたらイヤなので気持ち遅め、810の出発。
 えびのIC下車。霧島神宮へ向かったが、途中で「積雪のためチェーンが必要」との電光表示が複数。危ないので止めておくことにした。結局、霧島神宮には縁がなかった。肥薩線の山線区間への訪問も雪が積もってたらイヤなので見送った。
 えびのICから九州道を北上。加久藤峠越え。前方に強烈なループ線が見えてたが、高速は長いトンネルでパスした。人吉球磨IC下車。
 9時、人吉駅肥薩線は私のお気に入りで何度も乗っていた。しかし、電車旅だと街をゆっくりと観光できなかった。今回は車なのでじっくり観光するつもりだった。ただし、肥薩線は2020年7月の集中豪雨で八代ー吉松間がストップしていた。その後の状況を知りたかった。
 まず隣にある駅弁「やまぐち」に行った。私はここの栗めしが大好きだった。店に入ると、ショーケースの上に栗めしの名札はあるものの、そこに弁当はなかったorz。せっかくここまで来たのに(><)。すると、その直後に店員のポッチャリした眼鏡の優しそうな女性が、栗めしを2個重ねて置いた。♪o(゚∀゚o)(o゚∀゚)o♪
 人吉駅にある観光案内所に寄った。ここはパンフレットをカウンターの中に置いてあり、用があれば係のおばさんに聞くスタイルだった。素晴らしい仕組みだ!無駄なパンフレットを配ることはないし、係の人のスキルが生かされる。観光案内所にはやる気のない人や上から目線の勘違いしてる人が結構いるんだよな。最初に入る場所で残念な気持ちになることも少なくはない。ここのおばさんはマニアックな私の要望にもとても親身になって答えてくれた。人吉城は石垣が壊れて入れないこと、人吉の街は西南戦争で街全体が焼かれたこと、殿様がずっと変わらなかったからお寺や神社がよく残ってること、駅弁の立ち売りの人は肥薩線が不通になってからすぐに辞めたなど、たくさんのことを教えてくれた。最後にどの道を通ったらいいか地図にマーカーでルートを書き込んでくれた。とてもありがたかった。
 駅の横の方には仮設の商店街が出来ていた。水害で移らざる得なかった人たちだろう。商店街の奥には人吉鉄道ミュージアムがあった。
 10時、人吉鉄道ミュージアム。以前に来た時にはこの施設はなかった。その建物の中からは幅の狭いレールが駅の方に伸びていた。建物の中にはミニSLが停って静かに煙を吐いていた。こういうのには必ず乗っていたのだが、親子が2組乗ってたので今回は見送った。せっかくこのような施設を作ったのに肝心の電車が来ないのは寂しいことだった。
 1025、国宝青井阿蘇神社。おそらく3回目。寺巡りするようになってからは初めて。改めてよく見てみると、ここの山門や拝殿は茅葺きだった。これは今までなかなか見なかった。観光案内所のおばさんが、神社と寺が合わさってると言ってたが、まさしくそういう感じだった。人吉は相良家が700年統治したため独自の文化が育まれていた。私が人吉に惹かれるのは他とは違うそういうところだろう。
 1050、永国寺。幽霊の絵があることで有名らしかった。ただ本物の絵かどうかは怪しいそうで。無人だった。説明はDVDプレーヤーを自分で動かすシステムだったが、操作通りやっても再生されなかった。そのまま撤収した。
 1105、繊月酒造焼酎蔵。ここでは工場を見学できた。工場に入った瞬間にアルコールのいい匂いがした。2階から1階を見るシステム。たくさんの自動機械があった。床は緑色のペンキが塗られており、うちの工場に似ていると思った。真ん中の方で、おばさんが焼酎を手動で瓶詰めして、次のおばさんがバックライトを使って外観検査、次の男性はラベル、次の男性は箱詰め。機械化してる部分とそうでない部分があった。売店で何か買おうと思ったが、閉まってたのが残念。
 1125、 老神神社。古い神社で重要文化財に指定されていた。奈良や京都では重要文化財はたくさんあるが、地方だと珍しい。
 1140、みそしょうゆ蔵(釜田醸造所)。ここも見学できた。薄暗くてじめじめしていて、地面はコンクリート、ポリバケツがたくさんあり、しょうゆのいい匂いがした。奥の方では味噌を作っていた。従業員の方々が皆さん丁寧に挨拶をしてくれた。
 売店に入るとおばさんにお茶を出してもらった。わかめの佃煮や味噌4種類を試食。とてもおいしかった。わかめの佃煮とインスタント味噌汁を買った。
 1215、立山茶舗(茶の蔵)。ウンスンカルタというものがあった。これは戦国時代にポルトガルから伝わったもので、江戸時代に禁止されたが、なぜか人吉では遊ばれ続けていたとのこと。4対4のチーム戦。人数を集めるのが大変そうだが、せっかくだから買ってみた。後はビスケットを2袋も。おばさんによると、ウンスンカルタは全国大会があるらしい。ビスケットサンドは静岡のお茶うけ。
 1235、大信寺。相良家と関係深い寺。寺の人が子供と遊んでいた。立派な地蔵菩薩立像があった。彩色も残っていた。
 1250、願成寺。くま川鉄道の駅名にもなってる寺。無人。ご本尊は重要文化財だったが、どこにあるかわからなかった。隣に相良家の墓所があった。敷地が広くて代々のお殿様のお墓が集められていた。こちらの方が有名なのかもしれない。
 1315、出発。球磨川に沿って八代まで行くことにした。ここは肥薩線の川線部分に沿っていた。集中豪雨の影響がどうなってるのかが気になった。
 肥薩線が復旧するのかは未だにJR九州からの発表はなかった。現地で川の対岸に見たのは、肥薩線が部分的に破壊されてるのではなく、ほぼ全体が徹底的に被害を受けてる様子だった。橋だけが流されたというレベルではなく、根本的に路盤が崩れていて、所々レールは宙に浮いていた。これでは復旧は到底無理だろう。元々赤字なのに復旧させる理由がない。道路の復旧が終わったら、いずれ正式な存廃議論が始まると思われる。
 道路には「一般車輌通行不可、緊急車輌は除く、責任は自己責任」という看板が立っていた。しかし、みんな普通に走っていた。私も一緒に走った。片側通行のところが多かった。
 1340、一勝地駅。昔に入場券を買ったことがある。駅舎は残っていて、球磨村の役所になっていた。梨のジャムとエコバッグを買った。
 旧坂本村。山の中の村だが、どういうわけか昔工場があった。脇道に逸れてどんなところか見に行った。高台にあった学校が工場跡というのを以前に聞いたことがあった。確かに学校のような建物があった。他には何も手がかりがなかった。後で調べると、全然違う場所を見てたorz。
 球磨川沿いに戻ると、また「一般車輌通行不可、緊急車輌は除く」と書かれた看板が出てきた。「ただし道の駅までは通行可」、トラックしか走ってないので、八代まで繋がってるのか不安になった。
 1440、道の駅坂本。店で明朝のパンとデコポンのジャムを買った。レジのお姉さんに道のことを聞いてみた。すると八代まで繋がってるとのこと。ホッとした。とても明るくて気さくな人だった。九州の店の人はみんな気持ちがいい。
 車の中で栗めしを食べた。あっさりしてるけど、凄くうまかった。こんなにおいしいのに、駅弁大会とかで一切見たことがない。是非とも出店して、駅弁を存続させて欲しい!1520、出発。
 八代ICから九州道へ。熊本に向かった。16時、緑川PA。眠くなったので体制を建て直した。またカールのうす味を2袋買った。16時半、出発。御船IC下車。
 1710、熊本港。1740発最終の九商フェリー島原外港に渡った。昔の上野との旅行以来2回目。3030円。船内ではずっとブログを打っていた。1840着。
 島原市の商店街の中に温泉があった。1915、島原温泉ゆとろぎの湯。500円。地元の人がおしゃべりをして賑やかだった。とても雰囲気がよかった。湯から上がってしばらくブログを打っていた。2040、撤収。
 21時、道の駅みずなし本陣ふかえ。あまり車はいなくて暗いし静か。よく眠れそう。
 今日は人吉を探索して、球磨川の復旧状況を見ることができた。被災地域はまるで東日本大震災津波被害を受けた地区のようであった。道路もまだちゃんと開通しておらず、坂本の道の駅は底上げが決定したとのこと。まだまだ復旧には時間がかかりそうだ。微力ではあるが、買い物してお金を落とした。私のお気に入りの街が早く復旧することを願っている。

2023/01/04(水)年休「鹿屋」

 起床は7時。4時に「ウーウー」とサイレンが鳴って叩き起こされた。まさか津波か?目の前は海だからヤバイぞ!「大根占町で火災発生。消防団は直ちに向かうこと」。凄い町だな。これで全員起こすのか?さらに1時間くらい間を開けてサイレンが鳴った。「火災発生は誤報とわかりました」。ずっこけた。町中がずっこけたのではないか?朝食は串間の温泉で買ったオレンジショコラ。オレンジかあ。オレンジは食べられないのがあるんだよなあ。種類わからんし。ちょっとだからいいよね・・・めちゃくちゃうまかった。危ないものほどうまかったりする?ブログを修正後、8時半に出発。
 今日は鹿屋を目指した。鹿屋には志布志からのバスで2回通ったことがある。ここにはかつて大隅線の駅があり、跡地には記念館ができていた。長年の悲願を達成する時がやってきた。
 道の駅を出てから、すぐ目の前は錦江湾だった。海の色は深い青色、遠くには開聞岳のきれいな三角形が見えた。しばらく進むと正面には桜島が見えてきた。頂上付近からは煙が出ていた。桜島を見ると、鹿児島に来たという実感がわく。
 9時、鹿屋市役所。鹿屋市鉄道記念館の案内に導かれて間違って入ってしまった。トイレが一分一秒を争うレベルであったこともある。中は平日の活気があった。男性職員さんが笑顔で近寄ってきたので、トイレの場所を聞いた。館内には仕事初めで市長の訓示が放送されていた。市民がいてもやるのか。
 910、鹿屋市鉄道記念館。ここには廃止された大隅線の展示があった。駅は少し高い位置にあり、駅舎の前には階段があった。駅舎の引戸を開けると、おじさんが出てきた。いろいろと説明してくれて、記念の切符もくれた。
 展示のことは噂で聞いてたが、とても充実していた。外にはホームがあり、キハ20が静体保存されていた。中に入ると機械油の臭いがした。クロスシートも網棚も吸い殻入れも扇風機も、全部懐かしかった。
 そこに鉄道関連の本がたくさんあった。どれも面白そうだったが、特に目を引いたのは宮脇俊三「JR私鉄全線各駅停車」シリーズ10巻で小学館から出版されていた。どうやら全駅が説明されているようだった。この本の存在自体を知らなかった。どこかに売ってないかな?
 最後におじさんに路盤がどこに伸びてたのか聞いてみた。すると、駅舎もレールも後の再現で、路盤の方向も違っていることがわかった。全部当時のままって思っていたorz。本当の駅の場所は隣の市役所だった。1020、出発。
 1025、鹿屋航空基地史料館。鹿屋には海上自衛隊の航空基地がある。屋外にはたくさんの軍用機が展示されていた。コロナのせいで開館時間が細切れになっており、事前予約が必要だった。着いてから電話して、30分後の11時から12時半の見学を予約した。待ち時間の間で展示されてる軍用機の写真を撮りまくった。
 11時に見学開始。海軍飛行部隊の誕生から現代までを説明していた。日清戦争日露戦争、第一次第二次世界大戦が時系列に並べられていた。戦争ごとに有名なエピソードが紹介されていた。やはり神風特攻隊で散華した人たちの写真が壁一面に貼られていた。これは靖国神社や知覧と同じだった。今の日本はこの人たちの犠牲の上に成り立っていることを忘れてはならない。
 市丸中将の「ルーズベルトニ与フル書」の内容は衝撃的であった。このような高度な内容をしたためることができるのに戦争で死ななければいけなかったのか?涙が出そうになった。
 1時間半ではとても全部を見ることはできなかった。とても
意義のある訪問だった。このような施設はもっと増えてもいいと思う。
 1240、出発。ラフに大隅線の廃線跡錦江湾に沿った部分を探索した。大隅線は100km近くあり、とても細かく回る気が起きなかった。左手にきれいな海、右手に廃線跡を探しながらの忙しい行軍となった。
 1250、大隅高須駅。公民館横に記念碑が建っていた。ここでまさかの同業者と遭遇。しかも、その人は車ではなかった。どうやって来た?
 13時、荒平駅。海に面していた。海には小さな砂州があり、先端の島に荒平天神があった。岩場を安置されてるロープを伝って上ると、小さな赤い祠があった。
 1325、古江駅古江駅跡記念公園。ホームと駅舎が残っていた。駅舎の中ではお年寄りたちが何やら会議をしていたので、入れなかった。
 1355、垂水駅。垂水鉄道記念公園。動輪が2対置かれていて、説明看板があった。
 1405、荒崎パーキング。海の向こうに見える桜島の写真を撮った。液晶の視認性が悪くてなかなかいい写真が撮れなかった。
 大隅線跡に一旦別れを告げて、桜島を一周することにした。桜島に入る部分はバスを乗り換えたことがあり、見覚えがあった。
 1450、湯之平展望所。桜島の中腹にあり、桜島の頂上付近がよく見えた。錦江湾や対岸の鹿児島市もよく見えた。錦江湾はまるで湖のように全方向に山が見えた。錦江湾姶良カルデラの跡に海水が入り込んだものとのこと。1505、出発。
 進んでいくと自然に桜島フェリーのゲートにたどり着いた。乗ったことあるのでUターンした。桜島をほとんど一周したところで、1535、黒神埋没鳥居。大正時代の噴火で桜島大隅半島と地続きになった。その時に降った灰で神社の鳥居が2/3ほど埋まってしまった。見た目にインパクトがあったが、出落ち感も凄いw。
 桜島から離れて錦江湾沿いに北上した。海潟から国分までの区間大隅線で最後に開業した部分であり、わずか15年で廃止された。元々ここに住む人たちは垂水からフェリーで鹿児島に出るらしく、国分周りだと1時間半も余計にかかるとのこと。しかも、この区間は山がちであり、トンネルと橋梁が連続してたそう。なぜ開業したのだろう?
 16時、牛根麓駐車体。桜島を撮影した。液晶は視認性が悪くてダメだな。次からは有機ELだわ。
 錦江湾に沿って鹿児島市内に入りたかったが、国道10号線はとても渋滞してた。我慢できずに加治木ICから九州道へ入った。1710、桜島SA。おみやげのかるかんを買った。鹿児島ICで下車。
 1735、給油。180円/Lは高かった。
 1750、コインパーキング加治屋町第一。天文館の山之口本通から商店街へ。
 18時「黒福多」。2年ぶり4回目。前回はあまりおいしく感じなかったが、今回はうまさが復活した。昼食を抜いてたのがよかったと思われた。前回は「むじゃき」の白熊の後だったからなあ。
 帰り道でパーキングがどこだったかわからなくなった。迷ってるうちにイルミネーションが美しい公園があった。1905、天文館ミリオネーション。かなり気合いの入ったイベントで、色とりどりのイルミネーションはとても美しかった。
 1920、コインパーキングから出発。330円だった。すぐにコンビニでトイレに行った。
 鹿児島ICから九州道に乗り霧島神宮を目指した。薩摩半島の方は昔にレンタカーで回ったしスルーすることにした。結局、鹿児島市内はタッチ&ゴーだった。第一そろそろ折り返して帰らないとね。20時半、吉松IC。地図を見ると、霧島神宮へはとんでもなく遠回りしていることに気づいた。疲れてた?
 今日は鹿屋を中心に回った。桜島を一周できたのもよかった。本来なら大隅線の探索もちゃんとしたかったところだが、まずは有名な観光地を片付けてから。また来る機会があれば次は是非。

2023/01/03(火)祝「大隅」

 起床は650。この道の駅は車も来なくて本当に静かで、眠るのには最高だった。朝食は昨日の温泉で買った塩パンロール。昨日のブログを修正した後、750、出発。
 今日は都井岬を目指した。都井岬には野生の馬がいることで有名だった。これはずいぶん前にmisterに教えてもらったと記憶している。
 海沿いを南下した。昨日見えなかった海岸の眺望は、道路が高いところを通っていて、入江が遠くまで見渡せたりして、とても素晴らしかった。昨晩頑張って道の駅なんごうまで戻ってよかったと思った。
 昨日トイレがあった恋ヶ浦にはサーファーの車が10台くらい路駐していた。彼らはサーフィンを楽しむとともに、あちこちの海に行くのも楽しんでるのだろう。
 都井岬への分岐を入ると、820、ゲートがあった。都井岬は岬全体が牧場になっていて、ゲートは馬が逃げないように設けられていた。昨晩都井岬車中泊をすることも考えていたのだが、夜間は自分でゲートを開閉しなければならなかった。なんだかそれが気持ち悪くて車中泊を見送っていた。ゲートにはおばさんがいて、300円の協力金を渡すと、パンフレットをくれた。施設が開くのは9時と言われた。少し時間があった。おばさんの対応はとても丁寧だった。こういう一瞬のやり取りでも人のよさが滲み出るものだな。パンフレットにはステッカーが挟まっていた。
 先を進むと、早速一頭の馬が道路を横切っていた。馬は小柄で細身だった。御崎馬というらしかった。この先の期待感が膨らんだ。
 小松ヶ丘広場という見晴らしのいい広場に出た。海岸線が遠くまで見渡せて、山の上の稜線には風力発電の白い風車がたくさん並んでいた。まるで霧多布岬のような景色だった。ここの風景をバックに青いインプレッサの写真を撮りまくってるスカジャンのおっさん2人がいた。見かけはいかついけど、楽しくて仕方ないように見えた。
 青いインプレッサの後をついていくと、灯台の駐車場にたどり着いた。ここには馬が2頭いた。トイレの横で草を食べていた。近づいて写真を撮ったけど、全然怖くはなかった。するともう1頭がどこからともなく合流した。インプレッサのおっさん2人はここでも車の撮影会をしていた。
 9時、都井岬灯台。協力金は300円。登れる灯台をうたっていたが、テラスが壊れていて上まで上れなかった。これでは詐欺ではないか?灯台の説明はとても面白かった。フレネルレンズを使ってること、灯台は光だけでなく、電波でもやり取りしてること。
 925、都井岬の御崎神社。駐車場から崖を階段で降りると、ソテツが自生している広場に出た。そこからは海が見えて、左の方に祠があった。祠の延長線上の山の中腹には真っ赤な祠があった。面白い配置だった。
 都井岬の馬は、尻屋崎と比べるとインパクトが薄かった。尻屋崎の馬の方が大柄で太っていて迫力があったし、何より近くをたくさん闊歩していた。期待感が強すぎたのかな?940、出発。
 1040、志布志市役所志布志支所。ここにはネットで話題になった看板があった。「こちらは志布志市志布志志布志にある志布志市役所本庁志布志支所です」「志あふれる町」など。志が大杉ィ。
 1050、志布志鉄道記念公園。志布志は3回目で公園は2回目。公園の1回目は大学友人Sとの旅行の時だった。志布志日南線の終点であるが、かつては志布志線と大隅線が分岐していた。保線区のあった場所に公園ができた。ここにはSLと気動車が静体保存されていた。目を引いたのは、芝生の上にピンク色のドアが置かれていたこと。まるでどこでもドアだった。これにはワクワクした。ツボに入ってしまった。
 1105、志布志駅。観光案内所になっていたので、パンフレットをもらった。
 1120、出発。大隅半島の先端であり九州最南端である佐多岬を目指した。1125、ガス欠にならないように給油。大平洋側に沿って走った。あまり見晴らしはよくなかった。宮崎神宮が良すぎるだけか?腹が減って何か食べれるとこないか探したが、いいところがなかった。
 1215、内之浦宇宙空間観測所。ダメ元で訪れてみると、やっていた。守衛のところで受付をして、許可証をもらった。許可証を車のフロントに掲示して、自分の車で所内を見学した。
 衛星追跡センター。巨大なパラボラアンテナがあった。宇宙からの微弱な電波をキャッチする。ここで都井岬で見たおっさん2人組とまさかの再会。2人は相変わらず車の写真を撮っていた。
 1235、衛星ヶ丘(ほしがおか)展望台。ここにも巨大なパラボラアンテナ。確か直径20m。パラボラアンテナは2基でセットらしい。そしてここからは山の下の方にロケットを打ち上げる時のタワーが見渡せた。
 1245、KSセンター(観測ロケット打上げ場)。ロケット2基が横に置かれて展示されていた。打上げ場ではあったが、ただの広場で打上げるための構造物は見当たらなかった。シャッターの閉まった格納庫が2棟あったので、そこに収納されてるのかもしれない。
 13時、M(ミュー)センター(イプシロンロケット打上げ場)。一番見たかった施設。ロケットを打ち上げる映像で必ず出てくるタワー。タワーにロケットをセットして、いろいろと点検する。その後、タワーからロケットを引き出して打ち上げる。遠い世界のものが身近に感じられた。
 1320、宇宙科学資料館。展示が古い!もう少し気合い入れてやって欲しい!でも、ロケットにはいろいろな最先端技術が使われていることがよく理解できた。ロケット燃料がまさかブタジエンの爆発的な重合を利用しているとは思わなかった。また宇宙から電波を送る時のFMとPCMの下りはPC9801シリーズの音源に繋がるものがあった。軽量化のためマグネシウムを使ったり、FRPを使うのも興味深かった。これらの知見の集大成が、はやぶさの帰還に繋がったんだな。
 1415、出発。佐多岬を目指した。大平洋側を南下した。山の中ばかりで、あまり景色は面白くなかったが、一ヶ所だけとても見晴らしのいい場所があった。
 途中から佐多岬への道は一本道となった。山の中を延々と走った。地図で見るととんでもなく遠い。ぐねぐねして、アップダウンが激しかった。「佐多岬33km」の表示に心折れそうになった。ひたすら不安になるくらい山の中だった。永遠にこのままではないかと思うくらいだった。しかも、いつもは山の向こうに町があるけど、今回は何もないのがわかっていた。夏に行った北海道よりも過酷だと思った。
 佐多岬が近づくと道路もよくなった。ようやく駐車場に到着した。ここからさらに歩かなければいけないことはわかっていた。しかし、お腹も減っていた。観光案内所に何かないかと見たら、ソフトクリームは売り切れだった。他はジュースしかなかったので、トロピカルフルーツジュースを買った。400円、あっという間に飲み干した。
 徒歩でいきなりトンネルを抜けると一旦下りとなった。そこでスカジャンのおっさん2人とすれ違った。またお前らか。北海道ではよくあるが、南九州も同じようなもんだな。遊歩道の先には御崎神社があった。都井岬と同じ名前の神社だった。なんなら日御碕の人事やも同じ名前だった。
 遊歩道の先を進むと、山のてっぺんに白い展望台が見えた。まるで山が帽子を被ってるようだった。函館山や姫路の手柄山のようだった。
 1605、佐多岬展望台。眺望は本当に素晴らしかった。佐多岬の先端には島があり、そこには白い灯台があった。右手の海には開聞岳のきれいな円錐形が見えた。
 1625、灯台守広場。朽ち果てた石積みの建物があった。日本軍の施設跡かと思ったら、灯台守の住んでた場所だった。
 1650、出発。今度は錦江湾に沿った道を北上することにした。こっちの方が道がよかった。
 1745、錦江町に入ったところで、ジョイフルを見つけた。勝田の時と同じく、腹ペコの時に限って現れるジョイフル。神だ!前と同じネギトロ丼とバランスサラダを食べた。後で勝田で食べたもつ鍋があることを知り悔しかった。
 近くの銭湯を探したら、凄いのが出てきた。書き込みでは「マニアの間で「神話の銭湯」と呼ばれる激渋銭湯」。これは行かねば!
 1840、梅の湯。外観からヤバかった。今にも潰れそうな木造の建物。中に入ると、番台の位置は番台ではなく、一段高い畳敷きになっており、こたつに入って愛想のよさそうなおじさんがテレビを見ていた。もしかして、お客さんかも、と思ったら「お金そこに置いて」と皿を出してきた。300円。
 脱衣所はよく地方の展示であるような明治か大正くらいの作りだった。映画のセットのような、まるでタイムスリップした空間だった。お客はいなかった。
 浴槽は細かいタイルを貼ったもので円形。身体を洗うところに蛇口が2つあったが、両方とも水。シャワーなんてないし、ケロヨンの洗面器もない。乾いた石鹸の欠片がたくさんあった。どうやって洗うのかと見渡すと、隣の方に「湯」「水」と書いた2つの蛇口があった。こな2つを組み合わせてなんとか頭を洗った。
 円形の浴槽は、思ったより深くてコケてしまった。危険な浴槽だった。湯加減は自分でバルブ操作して、調節するのだが、めんどくさくてやらなかった。まるで「テルマエ・ロマエ」の世界、貴重な体験だった。1915、出発。
 1925、道の駅錦江にしきの里。今日は早目のお休みとした。
 今日は都井岬佐多岬と気になる2件を片付けた。まだまだ行きたいところがある。明日も頑張ろう。