道の駅もりた。起床は545。夜は寒かった。やっぱり北に来たからだろうか?スマホは7℃を示していた。朝食後、昨日のブログを修正して、髭剃り、虫取り。
道の駅には大きな農家の建物があった。旧増田家住宅母屋。明治に建てられた住宅には部屋が11あるようだった。めっさ壁の高さがあって縮尺がバグっていた。
805、出発。今回の旅で最大の目的である亀ヶ岡石器時代遺跡を目指した。縄文と言えば、亀ヶ岡というくらい、マニアには有名であった。時間が早いので寄り道することにした。
地図を見てると津軽半島の西側には潟湖がたくさんありいつも気になっていた。津軽半島で南北に伸びる道の中で一番西を通っているは広域農道だった。広域農道は海沿いではなく、少し内陸を走っていた。海の方にアプローチするには、広域農道から西へ出ている道を使うしかなかった。広域農道は車通りがなかった。まるで北海道の道のようだった。1998年の下北半島も寂しかった。津軽半島も同じなのかもしれない。
820、ベンセ湿原。アプローチの道路は沼の間を貫いていた。沼には葦が生えて静かに青い水を湛えていた。北海道でよく見た景色だった。駐車場から遊歩道を使って湿原まで行った。湿原は湿り気がなくただの草むらのように見えた。日光の戦場ヶ原もそうだが。湿原って見た目ではよくわからないんだよなあ。湿原の奥の方に展望台があった。そこに至る道には道沿いに銀色に光る人工物が並んでいた。ソーラーパネルかよ。風情ぶち壊しもいいところだった。
850、亀ヶ岡運動公園。八重桜が幾重にも咲いていたので思わず寄り道した。運動公園なのに誰もいなかった。人気のない公園でただ桜は華麗に咲いていた。美しかった。ソメイヨシノは美しいけど、八重桜も派手でいいと思うのだ。
9時、木造亀ヶ岡考古資料室。なんか地図上で変などん詰まりにあった。おばさんが独りで管理していた。展示は一部屋しかなかった。展示物のほとんどは周りの家から借りてきたものだった。なんか素人がやってるような内容だった。最後におばさんといろいろ話した。亀ヶ岡のちゃんとした展示はつがる市の建物の中にあるらしかった。昨晩温泉に行く時に通りかかっていたところだった。結構、戻らないといけないのでしまったと思った。おばさんは楽しい人だった。東北の人は基本優しいのかもしれない。
10時、亀ヶ岡石器時代遺跡・田小屋野貝塚縄文遺跡案内所。駐車場にはプレハブが何棟か建っていて、ボランティアガイドが頼めるようだった。世界遺産に認定されたところでは大体ボランティアガイドがいるんだよなあ。
ボランティアガイドはちょうど10時からだった。蛍光オレンジ色のダウンジャケットと帽子を被ったおじさんがガイドしてくれることになった。おじさんが結構詳しく解説してくれたので驚いた。ただ一方的に台詞をしゃべっているような感じでもあり、質問してもあまり返ってこなかった。遺跡はどちらも少し高台にあり、草原の中にたくさんのタンポポが黄色い花を咲かせていた。
11時半、出発。十三湊遺跡を目指した。途中でせっかくなので日本海に面する砂浜も見てみようと思ったので、広域農道から西へ向かった。すると、やたら大きな鳥居が出てきて、たくさんの人で賑わっていた。
1140、高山稲荷神社。まったくノーマークだった。この辺りには北海道みたいに何にもないと思ってた。何かのお祭りかと思ったが、そうでもなかった。だとすると、変な新興宗教か?神社はやたら新しかった。階段を上がると本殿があった。でも、みんなはその奥にある階段を下りていった。何があるのだろう?階段を下りた先には小さな蓮池があったり、小さな末社があったり、赤い橋があったり、極めつけは伏見稲荷のような千本鳥居だった。そこには八重桜が咲きほこっていた。まるで平安時代の浄土庭園のようだった。まさに極楽。これらは完全に狙ってデザインされたものだと思われた。通常、薄汚れたものとかも混ざっているのだが、ここのはすべてのものが新しかった。これはさながら神社テーマパークの様だった。土産物屋にもおしゃれな高山饅頭、高山最中が並び、飛ぶように売れてた。飲食コーナーもただのそばやうどんの割には行列ができていた。お腹が減っててうどんを食べたかったが、この辺りはしじみラーメンが名物だと知っていたので我慢。非常食用に饅頭と最中を1個ずつ買った。ここは凄かった。びっくり。
十三湊に向かって北上。しばらくすると左側に細長い潟湖が現れた。やがて十三の集落にたどり着いた。中華料理屋があり、しじみラーメンがあるのではないかと思ってじっと観察してたら、しじみラーメンの幟が立っており、車も4台停まって満車だった。そのうち右側に十三湖が現れた。
1225、十三湊遺跡。十三湊は13~15世紀に安藤氏が拠点としていた町である。十三湖と日本海の間の砂州の先端にあった。津波にあって滅亡したとも言われ、謎の多い町だった。ここには看板が一つあるだけだった。見渡す限りただの畑だった。これではとても納得できなかった。
1240、しじみラーメン和歌山。しじみラーメンの中でもこの店が一番人気のようだった。そのせいか大行列していた。諦めることも考えたが、食の力には敵わなかった。待ってる間にブログを打ったり先の戦略を立てた。十三湊のことは市浦歴史民俗資料館に行けばいいようだった。市浦歴史民俗資料館は十三湖の中にある島にあるようだった。
13時に席に案内された。特製しじみラーメン(大貝)は売り切れ。しじみラーメン(中貝)を注文した。1315、ラーメンがやってきた。中にはしじみ、ワカメ、シナチクが入っていた。スープは透明で塩ラーメン。レンゲで掬って飲んでみると、薄くてあまりしじみ感はなかった。ネットには濃厚なスープと書かれていたが、書き込みとは違うと思った。麺は細麺で縮れていた。食べてるうちにだんだんおいしくなってきた。大体のラーメンは食べてるうちに飽きてくるもんだが。不思議な感じだった。しじみを食べると、もっとおいしくなった。これは確かにうまいわ。並んで食べた甲斐があった。
1345、中の島ブリッジパーク駐車場。駐車場にはたくさんの出店がありどこもかしこもしじみラーメンだった。結構、人は多かった。十三湖の島には木造を模した橋がかかっていた。ここは徒歩でしか渡れなかった。湖の底を覗き込むと底が見えた。潟湖だから浅いのかもしれない。十三湖の湖面は暗い水色だった。お世辞にも美しいとは言えなかった。
1350、市浦歴史民俗資料館。おそらく市浦という昔の村か町だった時の施設だと思われた。意外と立派で展示も充実していた。願わくば名前の中に十三湊を入れた方がいいのではないかな?今の名前では初めて来た人には何の施設かわからないだろう。
1440、出発。陸奥湾の方にある大平山元遺跡(おおだいやまもと)を目指した。ここは世界遺産でもあり、縄文時代の中でも最も古い土器が発見された場所だった。旧石器時代と縄文時代の間の遺跡だった。
1515、大平山元遺跡展示施設むーもん館。3月にオープンしたばかりだった。結構人が来ていた。16時に閉まるので、急いで見たが、あまり情報がなく一瞬で終わった。遺跡の方も一部だけであり一瞬だった。
1540、出発。どこに行こうか迷った。千葉に引き返してもいいと思った。迷ってたら線路があった。しかもレールが錆びていた。津軽線だった。調べると2022年8月から長期運休していた。名寄線や根室線の富良野-新得間のように全駅写真を撮ることにした。
1555、大平駅(おおだい)。今回の遺跡でせっかく知ったのに、もう電車は来ないかもしれない。何かの車庫があった。除雪車でも入ってるのだろうか?待合室はきれいだった。誰かが掃除してるのかもしれない。
1615、津軽二股駅。道の駅いまべつと、北海道新幹線の奥津軽いまべつ駅に挟まれていた。津軽二股という名前を奥津軽いまべつ駅に改称しない辺りが推して知るべしである。待合室はなくホームだけだった。新幹線の大きな高架とレールの錆びたホームだけの駅。あまりにも対照的だった。
16時半、大川平駅(おおかわだい)。大川平という集落の中にあった。どん詰まりの駅に行こうとしたら、家の前で家族が子供らと遊んでいて、そこを車で突っ込んでいくのは完全に不審者だった。ホームへの入り口には今別町の観光案内図があった。飲食店がすべて書き込まれているのが何もなさを現していた。この飲食店も今ではどれくらい残っているのだろうか?ここも待合室はきれいだった。
1645、今別駅。今別町の中心駅だから期待したが、こじんまりとした駅舎だった。オレンジの一人用のベンチが3つと真新しいトイレがついてた。もしかすると、トイレとしては機能してるのかもしれない。ホームに出る扉には鍵がかかっており、ホームには出られなかった。
1655、津軽浜名駅。小さな集落の入り組んだ場所にあった。待合室はここもきれいだった。写真が10枚くらい貼ってあり、それぞれの写真に手書きのメッセージが書かれていた。どうやら今別高校が廃校になるようだった。今や電車って高校生かお年寄りしか使わないからなあ。これらの横には額縁が飾られており、マンガのイラストが入っていた。この絵は五能線の驫木駅でも見た絵とタッチが同じだった。この人は誰だろうか?待合室から外に出ると、正面には高校があった。
1710、三厩駅。終点。集落の外れにあった。自転車置き場には自転車があった。何でだろう?三厩駅には2008/4/28に訪れていた。この駅には太宰治「津軽」の手書きの一文が飾られていた。私はこれが見たかった。別に三厩駅のために書かれた文章ではないが、とても三厩のことをよく現しているように思えた。忘れないような写真を撮った。駅舎を出ると、代行バスが来た。2人降りた。誰だろうと思ったら2人とも旅行者のようだった。GWでこれではあまりにも惨めすぎた。
竜飛岬へ向かった。この道は1998年に通っていた。右側は深い青色の海となった。
1740、竜飛岬観光案内所「竜飛館」太宰治・N君・棟方志功ゆかりの宿 旧奥谷旅館。ここは知らなかった。N君と書いてあるのがポイント高いと思った。確か「津軽」に出てきた。太宰の友人でこの宿の息子だったような気がする。
1750、階段国道339号線。2007/8/25に訪れていた。その時は下まで降りて戻ってきたような気がしてたが、正確な記録はなかった。入り口には「おにぎり」があった。国が階段国道のバイパスを作ろうとしたところ地元から反対されたそうだ。階段国道の方が観光資源になるもんな。
下りながら段数を数えてみた。151段で一旦平坦部となった。そしてまたおにぎりが現れた。209段、おにぎりでおしまい。さらに茶色のタイルの階段で12段あった。折り返して上った。なぜこの階段があるのだろうと思ったら、平坦部には昔中学校があったことを記念する石碑が建っていた。なるほど。
津軽海峡冬景色歌謡碑。歌詞が書かれた石碑が立っていた。赤いボタンを押すと曲の2番が流れた。「ご覧あれが竜飛岬北の外れと・・・」。子供の頃によく聞いた歌で、とても印象に残っていた。でも、前に来た時は、いくらなんでもこれはないだろと思っていた。しかし、今日はこれは素晴らしいアイディアだったと思えるようになっていた。また子供の頃は石川さゆりのことはおばさんに思えてた。しかし、今改めてその声を聴くと若いなという感じだった。私も歳をとった。
18時半、頂上から夕陽を眺めた。水平線に雲がかかっており、太陽はその雲に沈んでいった。今回の旅では夕陽ばかり見てるなあ。
小腹が減ったので高山饅頭と高山最中を食べた。饅頭は黒糖にこし餡。最中は餡と皮が分かれていた。作りたての食感が味わえるそうだった。おにぎりかよ!ただめんどくさいだけだった。
1845、青森方面へ出発。暗闇をぶっ飛ばした。食べ物屋を探したが、ファミマしかなかった。ファミマはうまくないんだよなあ。
1940、ローソン蓬田瀬辺地店。今日はチキン南蛮弁当にした。あんまりおいしくなかった。
2010、よもぎ温泉。普通にいい温泉だった。
2050、村の駅よもっと。山の駅、海の駅、湖の駅は見たことがあったが、村の駅というのは初めて見た。車がほとんどおらずいいかもしれない。トイレが自動で電気がついたので使えそうだった。ブログを打ってるうちに眠くなった。トイレに行ったり眠気を覚ましながら打ったけど、遂に寝ることにした。