びーの独り言

どこいくの?どっか。

2023/01/06(金)年休「島原」

 起床は605。朝食は昨日道の駅で買ったチョコチップパン。手作りパンっておいしいなあ。普段から手作りパンにするのもいいかも?ブログを修正後、715、出発。
 時間が早くて施設が開いてないので、まゆやまロード。眉山を一周するコースをドライブした。空は雲って靄がかかっていた。そのためあまり景色はよく見えなかった。ひときわ高い山が平成新山だった。火砕流が起きた時にできた山だった。
 雲仙温泉に向かった。大学友人Sが教えてくれた地獄を見に行った。山道をぐねぐね走っていると、どんどん標高が上がっていった。道端には雪が残っていた。道路が凍ってるところがあった。一度後輪がツルッと滑った。地獄までたどり着けないかもと思った。開けた場所に出た時はホッとした。
 835、雲仙温泉古湯駐車場。300円。歩いて地獄へ行った。
 850、温泉神社。道には煙が立ち込めていて、硫黄の臭いがした。隣には八万地獄があった。八万地獄は、地面は真っ白で、ぼこぼこと蒸気が出ていた。こういうのは恐山や硫黄山で見たなあ。八万地獄は道を工事していて、奥まで入れなかった。
 855、清七地獄。雲仙には地獄がたくさんあった。遊歩道を歩いていると、雀地獄、お糸地獄、大叫喚地獄
邪見地獄・・・地獄だらけ。どこも八万地獄と一緒だった。945、出発。
 1025、島原城。駐車場は石垣の内側にあった。330円。島原城は5層で破風がない独特の構造だったが、5階の工事をしていて、城全体がシートで覆われていた。シートの外側には高校生がデザインした島原城が描かれていた。前に見た姫路城と同じパターンだった。城の中はキリシタン関連と歴代城主の展示があった。とても詳細で分かりやすかった。城の規模は大きく、お堀も石垣も立派だった。譜代大名だからだろう。
 1220、出発。島原半島を時計回りに海岸沿いを一周することにした。ここには島原鉄道加津佐まで走っていたが、末端区間である島原港から加津佐は廃止になっていた。途中何ヵ所も路盤やガーター橋を目撃した。国道を走ってて思ったのは、そこそこ家があったのに、廃止になったのか?
 1320、原城跡。ここは島原の乱天草四郎が率いる一揆軍が籠城した場所である。最終的には兵糧攻めにあい、全員が皆殺しになってしまった。島原半島の6割が参加したとのこと。日本の歴史上異例の戦いであった。
 原城は海に面した丘の上にあった。今は石垣が所々あり、草が生えてるだけだった。海側の石垣は工事していて近づけなかった。丘には印象的な十字架のモニュメントが立てられていた。かつてここで凄惨な戦いがあったと思うと、まさに「兵どもが夢のあと」であった。1420、出発。
 有馬キリシタン遺産記念館。キリスト教の布教から弾圧までを説明していた。前に長崎の大浦天主堂で見た説明は隠れキリシタン中心で、ここのはそれより前の布教の時の話が多かった。アレッサンドロ・ヴァリニャーノがミリナリヨを有馬と安土に作り、天正遣欧少年使節を派遣した。この話が日本の歴史上、他とは違うものに感じられるのは、外国の影響を色濃く反映しているからかもしれない。そして、結果的にこれ以上ないくらい最悪の結果を迎えたことが時代の流れと虚しさや儚さを感じずにはいられないのである。1540、出発。
 1550、島原鉄道加津佐駅跡。ホームはそのまま残されていた。路盤を自転車道にするための工事をしていた。唐突に線路は途切れていたらしく、コンクリートの車停めがあった。説明書きも何もなく寂しい駅跡だった。
 加津佐の先は、崖の下にロックシェードが続く険しい道となった。これでは島原鉄道が安心することは不可能だったろう。海の景色は靄に覆われていてすっきりしなかった。
 小浜温泉が出てきた。雲仙温泉のようにあちこちで地面から白い蒸気が上がっていた。
 16時半、「くまや弁当」。大盛りで有名な弁当屋さん。ここまで昼食を食べずに我慢したのに、休みだったorz。   
 長崎に行くこともできたが、もう旅行はお腹いっぱいになっていた。佐賀のおじさんのとこに顔を出す約束をしていたので電話した。19時に行くことを伝えた。
 長崎道を諫早ICから佐賀大和ICまで。途中で50km/h制限があった。ウソだろと思った。おじさんの家にはすんなりと到着した。2年ぶりだった。こたつでゆっくりしてテレビを見た。いとこも来てくれた。久しぶりに布団で寝た。
 今日は島原を駆け抜けた。ちょっと靄がかかってたのが残念だった。どうやらPM2.5らしかった。久しぶりにその単語を聞いた。九州では日常的に被害に合っているのか?