びーの独り言

どこいくの?どっか。

2016/09/02(金)「本院」

 順天堂の本院に行った。8時に受付の予定だった。いつもより早い検見川浜0630発の普通電車に乗り、東京駅で中央線に乗り換えて御茶ノ水駅で下車した。本院の前の道は大学友人Sが住んでた頃によく通っていた。小渕総理が亡くなった病院というイメージだったが、まさか自分がお世話になるとは。
 本院に着いたのは0745頃だった。入り口を入ると小さなスタバがあり軽く驚いた。小さなエスカレーターを上がると、すぐに案内所があった。受付窓口の照明は消えており、8時から始まるものと予想がついた。浦安と同じように再診受付の機械があったが、初診が何をすればいいかわからなかった。よく見ると初診申込台があった。備え付けの用紙を見ると、住所とかを書かないといけなかった。ネットで事前手続きしていたのでおかしいと思った。案内所にいた警備の服を着たおじいさんにメールのコピーを見せて尋ねてみた。すると照明の消えた窓口の方に案内され「9」と書かれた番号札を渡された。こんなん自力ではさっぱりわからないんだが?
 8時に受付の照明がつき、女性がマイクで案内を始めた。やがて9番が呼ばれ、マイクでアナウンスしてた女性に番号札とメールのコピーと紹介状を渡した。その場で紹介状の封が切られて中身が確認された。いきなり「セカンドオピニオンになってますが?」と言われて驚いた。確かに浦安では「セカンドオピニオン受けますか?」と言ってたが。畳み込まれるように「診察ですか?セカンドオピニオンですか?」と聞かれた。「診察とセカンドオピニオンで何が違うんですか?」と聞くと、「診察だったら病院を移るということになりますが」と言われた。そんなことあるもんかと思った。「診察だと前の病院に戻ってはいけないんですか?」と聞き返すと、「戻ってもいいですが」と言われた。なんなんだ?「私は浦安でここを紹介されて来ただけなので、診察かセカンドオピニオンなのかわからない。浦安では治療できないと言われたので診察だと思っていたんですが?」と答えると、なんだかそういうことになった。事前予約のときのやりとりでも同じやりとりがあった。一体なんなんだ?
 しばらくして受付でもう一度呼ばれた。書類の入ったファイルと注意書を渡され、「ファイルを3階の血液内科受付に渡してください」と言われた。血液内科に行く前に注意書を読んだ。「患者には治療を拒否する権利がある」と書かれていた。あれ?なんか雰囲気が違うぞ?「患者にはきちんとした説明を受ける権利がある」。私の思い描くイメージにかなり近いのだが。浦安とはまったく違う感じがした。
 3階の血液内科受付は浦安と似たような雰囲気だった。書類を提出すると、問診票を2枚渡された。何か特別なことが書かれてるのかと思ったら普通だった。いつもよりよく考えて時間をかけてきちんと記入した。受付に提出したらすぐに名前を呼ばれた。ちょっと早すぎると思った。それに問診票見てないよね?
 診察室に入ると、浦安のように事務机と椅子があり、すぐそばに年輩の白衣を着た男性がいた。おそらくこの人が教授ではないかと思ったら、やっぱりそうだった。偉そうなのが出てきたらどうしようと身構えていたが、優しそうな感じでホッとした。すぐにかばんの中からボイスレコーダーを取り出したが、充電切れだった。なんのために持ち歩いてるのかorz。代わりにペンと手帳を取り出ながら、「浦安では骨髄移植ができないと聞いたのでこちらで話を聞きたいと思い来ました」と切り出した。セカンドオピニオンだろうと診察だろうと、聞くことは同じだった。
 教授はいきなり私の目を見据えて言った。「本態性血小板血症から原発性骨髄線維症になった場合の判定はないので、原発性骨髄線維症の話をします」。少し早口でふいをつかれた。浦安でもまったく同じことを言われたなあ。続いて医学書のあるページを指しながら「DIPSSのスコアでは14.2年生きられます」。14.2年とは長いスパンだなあ。50歳になり少し白髪混じりになった自分の姿を想像した。浦安よりも余命が延びてるような気がしたが、判定基準が微妙に違ってたのかもしれない。「もし3年後に判定したときに同じスコアだったら、また14.2年になります」、あんまりこの判定は信用してないからそこはどうでもよかった。「兄弟はいますか?この病気は兄弟がいるかいないかでずいぶん違うんです」と言われた。「弟がいます」と答えた。絶縁状態であることは言わなかった。それはなるようにしかならないだろう。まさか兄弟というのにこういう繋がりがあるとはなあ。
 「浦安の先生はよく調べられてますね」と言われた。そうだったのか。素人目に見ても検査漬けだったし。「HLAも大丈夫だし。HLAの説明聞いてます?」と聞かれた。おそらく同意書を書かされたいくつかのわけのわからない検査の一つというのは想像がついた。「聞いてません」と答えたら、教授は患者に説明してないのかという雰囲気を出した。自覚症状の話をされた。浦安では息切れや微熱が出るようになると聞いていたが、他には寝汗や体重減少があるようだった。なぜ今頃初めて聞かされることがあるのか?体重減少では脾臓や肝臓が肥大しているの少量食べただけでお腹いっぱいになるらしい。肩の辺りは痩せてるのに腹部だけが飛び出てしまうそうだ。寝汗はないし、体重減少はよくわからなかった。ここでも「慣れちゃってるのかな」と言われた。「このまま転院されますか?それとも浦安に戻りますか?」と言われて驚いた。こっちに転院できるのか?それは望むところだったのに、なぜか「浦安の方が通いやすいので浦安に戻ります」と答えてしまった。
 「聞きたいことありますか」ということだったので、「今私は独り身で大阪に親がいて、骨髄移植の際は大阪に戻りたいと考えています。ただ仕事は東京が気に入ってるのでできるだけ東京にいたい。いつ大阪に戻ればいいのかタイミングがわからないんです。治療と関係がなくてすみません」と言うと、教授は「それはとても大事なことです」と言った。長年このことが心配だった。ようやく理解してくれる人が現れたという感じだった。「阪大の先生は知ってるから話できるよ」ということだった。心強かった。「今輸血しているんですが、このままこれがずっと続くのでしょうか?」という話をしたときに流れが変わった。「そうか、輸血してるのか」。さっきのスコアが一気に悪くなった。3年。元からそれくらいのイメージだったが、そんなに悪くなるもんなのか。「それだったら早く大阪に行った方がいい。移植するなら早い方がいいかもしれない。輸血を重ねると体力がなくなり鉄が溜まって予後が悪くなる」。まさか移植の時期がそんなに早いとは。これは本当に予想外だった。最初に浦安で言われたことが思い出された。「この病気は早いうちに骨髄移植した方が治りがいい。しかし、それは生活に支障がない状態からの移植となる。移植しても何割かが亡くなる」。教授は言った。「右へ行くか左に行くかはその人の覚悟です」。「覚悟」とはまさしく私の好きな言い回しだが、実際決断を迫られるとなると震えるなあ。なんとか軽く受け止めようとしてる自分がいた。
 教授は浦安の先生に一筆書いてくれた。おそらく大阪への転院を薦める内容だと思われた。これから先は、浦安で「治療のために大阪に移った方がいい」という所見を書いてもらい、会社に転勤を申し入れることになるだろう。
 ずっと移植を受ける気はなかったのだが、話を聞いてるうちに受けた方がいいような気がした。トータルで長生きできるなら、そっちでいいのかも?失敗して何年か早く死んだって、その何年でなんかするわけでもないし。とにかく阪大でよく話を聞かなければ。
 今回教授の話が聞けてとてもよかった。どこか煮え切らない浦安と違って、言葉の重みがまったく違った。この教授が最後の砦だったわけである。とても真剣なやりとりだった。ずっと身体の不調よりも精神的な二次被害に悩まされていたが、今回でほとんどの疑問は解決した。
 会社には1日休むかもしれないと伝えていたが、着いたのは11時だった。すでに転勤の辞令を受けたような気分だった。元々あてにしてなかった時間だったので、仕事はかなり進んだ。ようやく落ち着いてきた。
 宇都宮のFさんともすぐにやりとりを始めた。大阪に行くのは秋祭りの後かなと思っていた。午後突然「白紙に戻して欲しい」というメールが来た。内示が出たらしい。結構盛り上がっていたので残念だった。もう二度と機会はないかもしれないなあ。でも「また機会があればよろしくお願いします」と返信した。
 今日はいろいろなことが一気に進んだ。こんなにもいろんなことが進むことがあるんだなあ。月曜日に混乱してたのがまるでウソみたいだった。