びーの独り言

どこいくの?どっか。

2008/07/11(金)「独り言」

 子供の頃から、良い子でいなさいと教育を受けてきた。ずっと頑張ってきた。でも、最近それは正しかったのかと思い始めている。計算や読み書きの基礎は必要だ。けれど、国語や道徳で教えられてきたことは果たして正しかったのか?社会秩序を維持するために大人が子供に押し付けた論理ではないか。
 大人はあるときから人生が下り坂に入ったことに気づく。だから、同世代で協力しだす。年長者が有利になるようなシステムを作り上げた。このシステムは子供の頭を押さえ、従わせるものである。子供は年長者を助けなければいけないと教え込まれる。それが正しいと信じ込まされるのだ。階層構造は暴力で成り立っている。
 やがて私も暴力を奮う側に回る。普段楽になるために働いている。でも、楽になるということは代わりの誰かが働いているのである。自分は悪くないって思っていても、誰かを犠牲にしてるのである。人は公平にはなれない。わがままなのが自分の証明。そして、わがままにより誰かを傷つける。いろんなことで罪悪感を感じる。けれど、それらは気にしても仕方がないことである。
 論理的に物事を突き詰めると真実から離れていく。論理なんてものはごまかしだ。物事には必ず表と裏があり、どちらが正しいなんてわかりはしない。だったらポジティブに捕らえましょうというのがマーフィーの法則。良い認識は現実化するらしい。どんな認識だって目の前で起きている現実は一つだ。
 国や時代によって法律が違うのが法律の矛盾点を表している。法律なんてものは細部までこだわるべきではない。ルールがあるから裏切り者が出てくる。コンプライアンス重視って言ってるが、紋切り型にやっちゃうと形骸化してしまう。「国家の品格」によれば、人を殺してはいけない理由は説明できないそうだ。相手に殺されそうなときに相手を殺してはダメなのだろうか、と考えればわかりやすい。論理は必ず矛盾する。
 マガジンの漫画にあったのが、ベトナム戦争で人を殺した兵士がずっと幻影に悩まされていた。精神科医にかかって、たどりついた結論は、戦争だから仕方がなかったのではなくて、実は人を殺したかった、であった。行為そのものは自分がやりたいからやるのである。人はわがままなのだ。自分が生きるためには人を踏み台にする。もちろん積極的に踏むわけではない。けれど、それは仕方のないことなのである。
 楽しみは先に味わうべき。明日死んでしまうかもしれないのに先延ばしにする理由は何もない。先に楽しむだけ楽しんでおくと、人生収支が黒字で終われるかもしれない。楽しんだもの勝ちだ。暗い顔して不幸を振りまいてるより、明るい顔をして運命に打ち勝つべし。笑う門には福来る。