びーの独り言

どこいくの?どっか。

2021年

 今年は激動の一年だった。仕事面ではろくなことがなかったが、プライベートではかなりいろいろな所に出かけた。来年は新しい分野に挑戦したい。
 皆様、1年間お世話になりました。来年も引き続きよろしくお願いいたします。

・尼崎での不毛な戦い
・Kさんとの別れ、YさんとIさんの忘年会
自治会長の仕事
・測定装置の購入
・GWに佐賀のおじさんの所に行った
・尼崎近辺を観光(武庫川、夙川、海遊館尼崎城難波宮太陽の塔ミュシャ)
・夏のグルメ旅行(徳島、高知、宇和島、宮崎、鹿児島)
・滋賀に引っ越し、新しい職場、車買う
・車で観光(三方五湖白川郷、高山、神岡、松阪牛、西ノ京、斑鳩)
・滋賀での確執

2021/12/30(木)休「自転車」

 結局、旅行には行かないことにした。行きたいとこが特になかった。
 自転車のパンクを直しに行くことにした。昨日、近くに見つけた店はよく調べると廃業していた。一番近くの800m先の店は書き込みがボロクソ。2.2km離れた甲西駅の自転車屋に行くことにした。電話すると開いてた。
 パンクしてたけど、空気入れで空気を入れると自走できた。チューブはボロボロだったけど、すぐに空気が抜ける感じではなかった。そのまま自転車屋まで。
 自転車屋は小さくて、バイクの方がメインぽかった。おじさんは優しそうな感じだった。憂いがないようにチューブを交換してもらった。3800円。高いような気がしたが、この辺りは売り手市場なんだろう。
 店の前の道には見覚えがあった。ここは15年前に何回か連れてこられたスナック街だった。しかし、スナックは一軒しかなかった。滋賀に来てからスナックの話がまったく出ないし、もう絶滅してるのかもしれない。
 11時、せっかく甲西駅に来たのだからParivara。ネパールカレーのお店。菱沼さんが朝のスピーチで話題にしてた。菱沼さんは基地外だが、店選びにはセンスがあった。
 チキンカレーとチーズナンのセット。辛さは3の中辛。びっくりするくらいうまかった。旅行に行かなくても、旅行に行ったような気分になった。完全に満足した。これは通いそうだ。
 20時、ドライブイン三雲にある漫画喫茶。ここの漫画喫茶は15年前からあるが、入るのは初めてだった。漫画喫茶自体、入院前以来だから4年ぶりくらいだった。広い個室で充分に眠れそうだった。でも、別に泊まりに来たわけではなく。
 無性に「弱虫ペダル」が読みたかった。読んだことはあったが、それでも読んで感動したかった。最初の方は神レベルに面白かった。何回か泣いた。インターハイから展開がぬるくなり、ゴールの27巻までが長かった。ゴールシーンは頬を涙が伝った。おそらくここがハイライトだと思う。それ以降はしばらくぬるかったという記憶があり、撤収することにした。
 漫画喫茶を出たのは2時だった。車は全然走ってなかった。いつもと違い真っ暗で、まるで違う道のようだった。そういや夜遊びは久しぶりかな?
 なんか旅行してるような自由な一日だった。

2021/12/29(水)年休「ハスラー」

 今日から冬休みだった。旅行に行く気も起こらず、ダラダラしてた。
 急に、パンクした自転車を、ハスラーに積んで自転車屋に持って行くことを思いついた。この辺って自転車屋がないんだよねえ。15年前はパンクしたまま寮にほったらかしにしてたら捨てられた。
 ハスラーはフルフラットになるから買ったが、今までフルフラットにしたことはなかった。自転車はハスラーには入らなかった。無理したらなんとかなりそうだったけど、そこまでするつもりもなかった。ただ車内を汚しただけだった。
 家から濡れた雑巾を持ってきて、車内を拭いてたら、フロントガラスもと思ったら他のところも気になって、結局サイドミラーの下や、ホイール周りの泥も、拭いていた。
 さらにフロアマットが砂まみれだったので、初めて剥がして、砂を叩き落とした。フロアマットからはみ出して車内に残った砂は、家から持ってきた掃除機で吸った。でも、砂はあまり吸えなくて、残った分は指で詰まんで捨てた。
 思いがけずハスラーを大掃除することになった。自転車屋はよく探すと近くにありそうだった。得てしてそんなもんだ。

2021/12/28(火)「仕事納め」

 今日は仕事納めだった。引き続き寒くて雪が散らついていたが、朝凍ってなければ大丈夫と車で出勤した。途中、初めて渋滞に遭遇した。何事かと思ったら、レッカー車が停まっていて、一車線を塞いでいた。警察官が交通整理していた。道の横の一段低くなってる田んぼには、一台の車が、道路の方向に対して直角に、何事もなかったかのようにちょこんと無傷で停まっていた。何が起きたのか?非日常的でシュールな光景だった。
 昨日の、ミスに気づいた案件。先方にこちらが欲しいデータがあり、再計算した結果も今までとほとんど変わらず、ことなきを得た。
 さて、もう一つ年始までにやらなければいけないことがあった。測定してみると、うまくいかなかった。部長が「うまくいかなかっならそういう結果もあるよ」と言ってくれたが、「もう少し試してみます」と答えた。設定を変えるとうまく測定できそうだったので、ノリノリになった。最後に答え合わせをすると、他の方法で測定した確度の高い値に対して、何の相関もなかった。部長には「ダメそうです。他の方法を検討します」と伝えた。
 部長と技術的課題について議論した。Mさんの召集するミーティングではそういう話しはほとんどされなかった。Mさんに三行半を突きつけた以上、部長についていくしかなかった。部長のことを認めてるわけではない。組織人として課長より部長の指示に従う。それだけだ。
 立て続けに問題に区切りをつけた。これで気持ちよく正月を迎えられそうだ。

2021/12/27(月)「復活」

 先週末から大寒波が来ると言われていた。ヤフーニュースでは滋賀県内で大雪が降ってることを伝えていたが、うちの近所は寒いだけだった。ノーマルタイヤだから電車で行こうかと思ってたが、アスファルトの路面は特にいつもと変わらなかった。
 いつもコンビニまで行って昼食を買っている。駐車場で車のタイヤを見てたらどれもスタッドレスタイヤばっかりだった。履かなくても大丈夫だと思っていたが、若干不安になった。やっぱり電車で行こうと思ったら、自転車がパンクしていた。そんな理由で車で行くことにした。
 路面が凍ってないか注意しながら、いつもより慎重に運転した。若干橋の上が白くなっていたものの、凍った水溜まりなどはなく、幸いなことに無事に会社に到着した。
 会社は半分くらい休んでいて、ガランとしていた。うちの課は皆休みだった。 人が少ない方が捗る。なによりうちの課の人と会いたくなかった。土日のもやもやを思いっきり仕事にぶつけた。
 午後から部長が出勤してきた。金曜日に何があったのかを洗いざらい伝えた。いたずらに会議で時間を浪費していること、技術的な議論内容がおかしいこと、Mさんが部長とは正反対のことを言うこと、そして出来ないと思っているのにやらしていること。部長は概ね私の話しに同意してくれた。だいぶスッキリした。
 その直後、私のやってる案件で、根本的に計算が間違っていたことが判明した。その結果を年始のテスト量産に反映させるつもりだったのに、75万円がぶっ飛ぶ恐れが出てきた。震えた。調べたらなんとか一抹の希望があることがわかった。その状況を部長に報告すると当然怒られた。他の人のこと批判する前に自分がちゃんとしないとな。
 先週金曜日は異動願いも辞さない考えだったが、部長と話したことで再びやる気が出てきた。私はただ自己の重要感が欲しかったのだろう。あとは結果を出さなければいけない。

2021/12/26(日)「浮上」

 頭の中に次から次へと仕事のことが浮かんでくる。デール・カーネギーの教えにより、紙に書いて整理することもできるのだが、私はその状態のまま放置した。
 夕方を過ぎたあたりで、突然いいアイディアが降りてきた。それをきっかけとして次々と前向きな対策が浮かんできた。パワーポイントで簡単な図を描いた。岡田斗志夫は「どん底にたどり着いたらあとは浮上するしかない」と言った。
 大学の専門教育を受け、ここの現場経験があり、分析能力があり、特許も書ける。開発ネタを探すためにいろんな分野を調べあげた。一つの部署に留まることをヨシとする企業文化で、「あいつは暴れる」と疎まれながら、色んな部署で着実にキャリアを積んできた。それはすべて今のためではなかったのか?部長、Mさん、Nさんのせいにして萎縮していた自分に気がついた。
 開発とは最終的に人の考えを変えることである。人の考えを変えることはとても難しい。それに比べれば自分の考えを変えることは容易いと言われる。しかし、私は自分の頑固さを誰よりも一番よくわかっている。頭が痛い原因は自分の感情が理性に必死に抵抗してたのではないか?年を取り、心が一層強固に凝り固まっていたのではないか?
 私にはまだまだできることがある。日々真剣に過ごさなければ、何事も成し遂げられない。生協の白石さんは「見返すしかない」と言った。半澤(ry

2021/12/25(土)「Kさん」

 朝方一回トイレに起きてから布団に横になっていたが、仕事のことが思い浮かんで眠れなかった。するとやらなければいけない仕事があることを思い出した。そのためには休む予定だった月曜日と火曜日に会社に行く必要がある。最低限自分の仕事はやっておかなければ、今後その点を責められてしまうだろう。筋を通しておくことは、生活のために必要なことであった。
 こういう感じで起きてからも仕事のことで頭がいっぱいだった。頭の血管がどくどくして、頭痛がした。次から次へと溢れ出す感情のためにまったく幸せではなかった。
 今日は尼崎で一緒だったKさんと会う予定だった。本当なら久しぶりの再会で楽しみなイベントだったが、こんな精神状態で出かけなければいけないことが残念でならなかった。
 家を出る前にKさんの4人のお子さんのために何かを準備するべきだと思った。今日はクリスマスだった。一家水入らずにお邪魔するのだから手ぶらではいけないと思った。思い付いたのは、昨年に岐阜で買った昔懐かしのオモチャたち。コマ、お手玉、グライダー、ストローで膨らます風船、お手玉など。昔を懐かしむために買ったが、結局開封もせずに押し入れの奥に入れっぱなしだった。余り物というのが私の中で引っ掛かっていたので、早く出かけて別の物も用意することにした。
 待ち合わせ2時間前の10時に家を出発。興奮状態であったため車の前で事故らないように祈った。行きの車の中でも頭の中は仕事のことでいっぱいだった。いつものミスチルも耳には入らなかった。国道1号線は予想通り混んでいた。しかし、いつもと違いイライラすることはなかった。
 待ち合わせ場所は瀬田川沿いの「ベイビーフェイスプラネッツ」だった。国道1号線から近江大橋の方に行くと、大将軍という地名が表れた。この地名は大学の研究室で一緒だったTさんが住んでいたところだった。Tさんはうちの大学では珍しく滋賀から通っていた。大将軍という地名は姫路モノレールの駅名にもあるが、どういう由来だろうか?
 適当に道を進むと、瀬田川に直角に合流した。この辺りは大萱といい、同じく大学で研究室が同じだったIさんが現在住んでいるところだった。Iさんが通っている会社はすぐそばで、大きな工場群を形成していた。この瀬田川に直角に合流した三叉路は、どこかで見たことがあった。もしかすると数年前に起きた、右折車が対向車にぶつかり、対向車が歩道にいた幼稚園児の列に突っ込こんだ事故現場ではないか?その現場だったかはわからないけど、いつもより慎重に左折した。
 瀬田川沿いを国道1号線の方に走るとお店があった。待ち合わせには1時間早かったので、近くを散歩することにした。
 ここには漕艇場があり、第1回と第2回の琵琶湖レガッタで来たことがあった。今回Kさんがこの場所にしたのは、漕艇場があったからだった。2回目の琵琶湖レガッタの後に、私がKさんに琵琶湖レガッタを教えて、うちの会社の関西の人たちが3回目の琵琶湖レガッタから参加するようになった。当の私は滋賀から東京に転勤し、しばらく会社の人とは距離を置くスタンスだったため、Kさんと漕艇場で一緒になることはなかった。
 瀬田川の景色は素晴らしかった。対岸には山が迫り、家がところ狭しと建てられていた。そして静かな湖面の瀬田川。見晴らしの良い景色を見ると、今起きてる問題が小さく思え・・・て欲しかった。漕艇場には高校生がうろうろしてたけど、ボートは浮かんでなかった。高校生は私のことを不審者と思ったんじゃないかな?漕艇場の建物には「関西みらいローイングセンター」と書かれたロゴ入りの看板が掲げられていた。まるで銀行の名前みたいだなと思ったが、これって本当に銀行の名前ではないか?まさかの漕艇場にネーミングライツ
 クリスマスプレゼントの買い増しについては、目的のお店の隣にアヤハディオがあったが、そこには目ぼしいものがなかった。反対側にあったヤマダ電機に行くと、なぜかキッズ用のお菓子コーナーがあった。「ねるねるねるね」とか、そういう感じの遊んだ後に食べる系のお菓子が並んでいた。お子さんに喜んでもらえるかどうか独身にはわからなかったけど、何を買ったところでどうせよくわからないし、逆に4人もいたら誰かに当たるだろうと思った。
 12時、「ベイビーフェイスプラネッツ」。駐車場で車から降りるKさん一家を見つけた。旦那さんに挨拶した。旦那さんはうちの会社で私よりはいくつか上で、大昔に東京の同じ建物で働いていたことがあった。話したのは一回あるかないかだけど、優しそうな印象があった。
 元気なお子さんが次々と登場して、最後に車からKさんが現れた。会うのは2年ぶりくらいだった。私が会社復帰した一週間後にKさんは転職していった。挨拶もそこそこにお子さんのことで精一杯といった風だった。お子さんがいたら大変だというのはわかっていたつもりだったけど、まるで戦場のようだった。Kさんは次から次へと当たり前のようにお子さんたちを捌いていった。純粋に凄いなあと思った。
 店は板間でローテーブル。そこをお子さんたちが部屋の隅から隅まで縦横無尽に走り回った。あの手この手で発想豊かにそこらじゅうの物をいじり倒し、3秒後には違うことに興味を示す。カオスだった。でも、そこにはなんの悪意もなく、純真無垢な天使のような笑顔があった。おそらく子供の顔を見れば、また明日も頑張ろうって思えるのかもしれない。子供は希望の星だなあ。独り身のおっさんにはうらやましい限りだった。
 帰り道で、完全に仕事のことを忘れてる自分がいた。子供の前では仕事の悩みなどほんのちっぽけなものに思えた。
 しかし、それもつかの間の平和だった。時間とともに頭の中の悪魔が復活した。血管がビートを刻み、脳ミソがパンパンになった。いくら他のことで誤魔化したところで根本的な問題が解決しなければ薬にはなりえなかった。
 結局、私の人生は私で決めるだけ。ベストを尽くしたら、あとはなるようにしかならない。いつも通りの結論だった。

2021/12/24(金)「爆発」

 今日は仕事納めだった。
 いつも朝に軽くミーティングしてるのだが、その席上でMさんから名指しで「昨日、週のミーティングで部長から話があったが、一週間に2個しか測定してなくて、今忙しいのに関係のないまとめをしてる」。私はぶちギレた。「部長にまとめろと言われたからやっている。部長は自分で言ったことも忘れてるのか?」。ミーティングが終わってからも怒りは収まらなかった。
 Aさんが私を別室に連れて行って「我慢しろ。お前が損するで」と言った。今までいろんな人に何度も言われたことだった。私は「一度こうなったら私が出ていくまでです。査定下がってもいいから、私の好きなようにします。なんならGさんに相談してもいい。私は9月からずっと状況を変えたいと思っていたが、どうにもならなかった。私のできることはもうない。」。
 午後イチからまたMさんのミーティングがあった。いつにもましてgdgdだった。途中でMさんが「先にメール出さないといけない」とミーティングの途中にも関わらずメールを打ち始めた。Nさんにはその間に書類を書かせていた。私は待ちぼうけとなった。するとAさんからメールが来た。「部長に聞いたけど、お前のこと悪く言ってなかったで」。Aさんがそこまで動いてくれたことに驚いた。ただ、Aさんがうまく収めようとしてくれてることも想像がついた。私はお礼のメールを打ち、思ってもいないことを書いた。「冬休みに頭冷やします」。
 私はAさんから言われたから我慢していたが、そんなんで我慢できるなら何度も転勤を繰り返さないわけで。結局、Mさんに向かって「何言ってるのか全然わからない。Nさんと2人だけで話してて、俺が入り込む余地がない。時間の無駄だから、後で決まったことだけ指示もらえますか」。もはや仕事なんてどうでもよかった。仕事にコミットする気がなかった。
 後でMさんが私の席まで来て、へらへら笑いながら「困る」とか「俺だって辛い」とか「みんな仲良くしよう」とか、あれこれ言い訳を始めた。私は「心が折れました。部長とMさんでいつも正反対のことを言うから振り回されて疲れた。私は自分の身を守らなければいけない。来年から適当にやりますからほっといて下さい」と言い放った。信用できない口先だけの人に何を言われても1Åも響かなかった。
 もう滋賀には興味がない。思いのほか早かったが、これはいつか約束された未来だった。2人の上司にいいようにおちょくられるのは今年限りだ。来年からはやりたいようにやる。

2021/12/23(木)年休「忘年会」

 入院してた時に部屋が一緒だったYさんとIさんで忘年会をした。1115JR高槻駅集合。阪急高槻市駅前の居酒屋に行った。
 私は入院中、TさんやKさんとつきあっていたので、2人とは距離を置いていたが、私と仲がよかった人はみんないなくなってしまった。今でも交流があるのはYさんだけになっていた。
 2人との話はとても楽しかった。親父ギャグの連発も心地よかった。Tさんが「退院したらお祝いやろうな」と言ったことを思い出した。Tさんはいなくなったけど、こうやって忘年会できるまでに回復したのは本当によかったと思う。
 滋賀に来てから、会社のドライな人間関係に疲れていた。また友人が遠方で会うこともなくなっていた。今日の忘年会は久しぶりに楽しい集まりになった。こういう縁は大切にしていきたい。