びーの独り言

どこいくの?どっか。

2024/03/08(金)年休「古市」

 東横インあべの天王寺。ずっと半分寝てるような起きてるような状態で悪い夢を見てた。それでもこのままずっと寝ていたいと思った。7時起床。身体はだいぶスッキリしていた。バイキング形式の朝食。いつも思うのは、泊まってない人が入ってくるんじゃないかと?特にここは土地柄紛れ込んでも不思議ではないんだが?窓の外を見ると、南海天王寺支線の廃線跡に面していた。
 735に出発。今日は世界遺産古市古墳群が目的だった。私はこのエリアで降りたことがなかった。百舌鳥古墳群と比較すると古市の方は地味だった。調べてもどこを回ればいいのかよくわからなかった。とりあえず箱物を狙うことにした。
 近鉄大阪阿部野橋駅は乗り潰しで来た以外は乗った記憶がなかった。頭端式のホームには少しテンションが上がった。751発藤井寺行き普通に乗車。近鉄南大阪線の駅名は聞いたことのない個性的なものばかりだった。藤井寺の一つ手前の高鷲駅で下車。民家の間の狭い道を抜けて行った。
 840、陵南の森総合センター。ここには歴史資料室があった。まだ開館してなかったので、他の所に行って時間を潰すことにした。
 850、吉村家住宅。重要文化財。江戸時代初頭を代表する豪農の建物。狭い路地の中の住宅街の中にあった。内部を公開している時もあるようだが、今日は外から見ただけだった。
 905、雄略天皇陵古墳。古墳は森のようになっていて、その周りは水で満たされていた。まるで池に浮かぶ島のようだった。池にはいろいろな鳥がいて、さながら都会のオアシスと化していた。雄略天皇は埼玉県稲荷山古墳で出土した有銘鉄剣に刻まれた「獲加多支鹵大王」に当たるとされている。
 925、再び陵南の森総合センター。歴史資料室へ。小さな部屋だったが、重要文化財の大きな銅鐸(高さ89.6cm)や西琳寺の巨大な鴟尾があった。西琳寺、野中寺、葛井寺寺はいずれも渡来人が作った氏寺のようだった。
 ここからは北東にある津堂城山古墳を目指した。東へ進み藤井寺駅を通り過ぎた所で北へ。1005、小山産土神社(こやまうぶすな)。通りがかったので一応チェック。スルーしたら後で凄いところだったなんてこともあるので。
 津堂城山古墳は堀の部分に水はなく、お花畑になったりしていた。ずいぶんと大きかった。ちょうど幼稚園の遠足に遭遇した。白鷺を見て「大きい鳩がいる」と一人が連呼すると残りの園児も大合唱となった。
 1015、史跡城山古墳ガイダンス棟「まほらしろやま」。津堂城山古墳の側にあり、簡単な展示があった。おばさんがやってきて10分間のビデオを見せてくれた。津堂城山古墳はここだけ他の古墳から離れて一番北にあった。ルートをミスったかと思ったが、古市古墳群で一番古くて重要な古墳だった。
 藤井寺駅に向かうことにした。1110、藤井寺駅前の「まつのや」で昼食。中性脂肪を指摘されてもガッツリいっちゃうんだよなあ。
 1155、藤井寺商店街を南に進み、葛井寺に行こうとしたら、路地のどん詰まりに「しゃむすん」と書かれた店があった。私はこれを見たことがあった。ここは元近鉄の栗橋選手の店だった。同僚だった金村選手が話す栗橋選手の伝説がめちゃくちゃ面白くて頭に焼き付いていた。まさか偶然見つけるとは。
 12時、葛井寺。ここは西国三十三箇所巡り第五番札所であり、国宝千手観音立像のある寺だった。国宝は毎月18日にしか御開帳されなくて、その時に来ようと思っていたが、結局いつまで経ってもタイミングが合わなかった。
 南の古墳の方を目指した。すると、大きな神社があった。1215、辛國神社。物部守屋の親戚である物部辛國連が創建したらしかった。式内社。なんか古墳以外にももいろいろあるなあ。
 1240、アイセラシュラホール。生涯学習センターに名前がついていた。建物の外観が古代の船の形をしていた。なんでそんなデザインにした?変な名前が着いてるなと思ったら、シュラは藤井寺で出土した修羅のことであった。アイセラは知らない。ネーミングライツか?
 2階に展示があった。世界遺産コーナーには、椅子に座ったおじいさんがいて話しかけられた。おそらくガイドさん。この近辺のことを教えてくれた。長野の善光寺よりも古い善光寺があること、道明寺は菅原道真の寺であること、壷井には源義家縁の源氏の里があること、もう少し先には二上山があること、太子町には聖徳太子のお墓のある叡福寺があること。知らないことだらけでとても興味を惹かれた。歴史の教科書は明日香から始まっているが、その前は大阪が中心だった。しかし、その時代は古墳時代としてしか紹介されていない。飛鳥時代の寺院もどれも残ってないし。実は大阪こそがあれこれ歴史について想像する余地が残されてるのかもしれない。
 さて、歴史展示室。端に見たことのない展示があった。井真成(いのまなり)。遣唐使として唐に渡り、亡くなったらしかった。中国で見つかった石碑にそう書かれていた。この碑文には初めて日本という名前が登場することが知られていた。井という姓は元々葛井か井上であり、中国語風に一文字にしたのではないかと推測されている。へー。
 1335、割塚古墳。仲哀天皇陵の陪冢。駐車場の奥にあった。1335、仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳)。全国第16位の規模。完全に池に浮かぶ島だった。
 1355、野中寺。ここにも毎月18日に御開帳される仏像があった。いつか葛井寺と一緒にセットで回りたい。境内には塔と金堂の跡があった。
 1420、仁賢天皇陵古墳。1435、峯ヶ塚古墳。1450、清寧天皇陵古墳。1505、白鳥陵古墳。1525、安閑天皇陵古墳。1545、西琳寺。16時、白鳥神社。内容は省略。
 1610、古市駅近くの鯛焼き屋。鯛焼きって惹かれるんだよなあ。150円。中で食べた。茨木のたこ焼き屋みたいだった。
 まだ外は明るくて回るところも残っていたが、足が棒だった。今日はほぼ10kmのウォーキングコースと同じ行程だった。駅が近くてキリがいいので残りは明日に回すことにした。まさか一日で全然見きれないとは思ってもみなかった。1620、古市駅から近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅へ。
 1650、あべのハルカスあべのハルカスはちょうど昨日で10周年だった。入院中には病院から遠くに見えていた。展望台には登ったことがなくて一度行ってみることにした。16階でチケットを買った。1800円だった。高い!エレベーターに乗り込む所で10周年を記念してパインアメを配っていた。昨年優勝した阪神の岡田監督がパインアメ好きであるが、それと関係あるのだろうか?
 17時、60階、ハルカス300展望台。エレベーターの扉が開いた瞬間、ガラス張りでとんでもなく素晴らしい見晴らしだった。テンションがめっさ上がった。1800円は高くないと思った。高さは288m。大阪の町はまるでジオラマのようだった。展望台の四方ともガラス張りになっていた。谷町筋が真っ直ぐ北へ延びていた。四天王寺五重塔通天閣は遥かに下だった。金玉がヒュンと縮んだ。西側は夕日が沈むところだった。夕日から赤い光の筋が放射状に町に注いでいた。美しい景色だった。
 1720、58階はレストランになっていて名物のパインアメソフトクリーム。550円。クリームの中にパインアメが砕いて散りばめられていた。
 60階に戻って写真撮影。最後に59階のトイレに行ったら、背後の壁もガラス張りだった。なにしとるねん!
 1750、退場して16階に戻った。1755、あべのハルカス美術館。ここも1800円だった。「円空ー旅して、彫って、祈ってー」。円空は江戸時代初期の仏師で、円空仏と呼ばれる作品をあちこちで見たことがあった。大胆にデフォルメして彫った状態をそのまま残すのが特徴だった。岐阜を中心に何万もの作品が遺されていた。しかし、円空がどういう人物だったかはほとんど記録はなかった。
 円空仏アイヌの土産物にありそうであり、オセアニアのトーテムポールのようであった。美術品ではなく、民芸品に近かった。神々しいというより、身近で庶民的であった。
 1910、撤収。1925、東横インあべの天王寺。今日はよく頑張った。明日も忙しくなりそうだ。