びーの独り言

どこいくの?どっか。

2023/07/21(金)年休「北摂」

 東横イン五条烏丸。6時起床。寝落ちして、アホほど寝た。新潟旅行で疲れてたのかもしれない。車中泊だと睡眠時間が短くなるんだよな。そっちの方が適正化されてるような気もするんだが、どちらがいいのかはよくわからない。
 810、出発。今日も天気がよくて、暑かった。阪急大宮駅まで歩いて、南茨木駅まで。京都に泊まりながら、京都で行きたいところがなかったり。
 920、茨木市文化財資料館。ここはできてすぐに行った場所。開館は1984/3/30だから、中学校に入ったばかりか。宮西を誘ったことを覚えている。当時、考古学に興味を持っていたが、茨木の知識はなかった。行ってみてわかったのは、茨木にも遺跡があることと、奈良という地名があることだった。
 今回、ここを選んだのは、近つ飛鳥博物館で高槻にも古墳があると知ったからだった。高槻には真の継体天皇陵と言われる今城塚古墳があった。今日はそっちにも行く予定だったが、その前に茨木には宮内庁が認めた方の継体天皇陵、太田茶臼山古墳があった。この文化財資料館には太田茶臼山古墳の資料がありそうだった。
 という訳で39年ぶりに訪れることとなったのは、何かの巡り合わせだろうか?それとも子供の頃の伏線を回収しにきてるだけか?建物の中には見覚えはなかった。きっと当時とはレイアウトも大きく変わってるだろう。部屋は4つに分かれていた。「東奈良遺跡ー弥生集落ー」「いばらき歴史発見!ー先人が遺した文化財ー」 「水旱ー水をめぐる茨木の災害史ー」「茨木の暮らしとなりわい」。
 東奈良遺跡には、銅鐸の工房があったらしく、鋳型がたくさん発掘されているとのこと。知らなかった。でも、どこかで鋳型は見たことがあるような?昨日、予習してて知ったのだが、近くにある沢良宜という地名は「さわら」が銅器で「ぎ」は邑を表すらしい。これにはビックリした。昔から変わった地名だなと思っていたが、そんな由来があったとは。
 他にも沢良宜は、藤原鎌足の別荘である三嶋別業があったとか。北摂地域は、大阪と京都に挟まれてる割にはなぜだか歴史の教科書には出てこないのだが、やっぱり何かしらのエピソードはあるんだな?今は地元の授業でも教えてるのかな?
 茨木で有名なのは千提寺で見つかったフランシスコ・ザビエル肖像画だろう。このあまりにも有名な絵が茨木で発見されたというのは、つい最近山田五郎Youtubeを見るまで知らなかった。番組では、千提寺には茨木市キリシタン遺物史料館があり、新名神ができて行きやすくなったと紹介されていた。九州の隠れキリシタンゆかりの地は結構回ったけど、まさか茨木にもあったとはなあ。すぐにでも行きたいところだけど、とんでもない山奥だからなあ。
 因みに太田茶臼山古墳のことは出てこなかったような?茨木城についてもあんまり。なんなら三宅城とかも全然。よくわかってないんだろうな。
 1015、撤収。阪急で南茨木駅から富田駅まで。高槻の今城塚古墳を目指そうとしたが、バスは30分待ちだった。とても暑かったので、タクシーを使った。タクシーを使ったのは小野市の浄土寺以来。1100円。思った以上に高かった。バスにすればよかったと思ったのも浄土寺の時と同じ。
 11時、高槻市立今城塚古代歴史館。つい最近までこんな立派な施設があることを知らなかった。ここは今城塚古墳を中心にその他高槻市内から出土した品を展示していた。
 最初は安満宮山古墳から発掘された5枚の銅鏡。いきなり凄いのがきた。その中の一枚は青龍三年銘鏡。これは年代が書かれている銅鏡では最古と言われていた。青龍3年とは235年のことである。邪馬台国卑弥呼の外交使節団が魏を訪問した際に100枚の銅鏡を与えられたのが景初3年(239年)とされており、その100枚の銅鏡の中の一枚ではないかと言われている。因みに丹後半島の遺跡からも同じ銅鏡が発掘されている。作りが悪いので、後年日本で模倣されたものではないかとの説もある。どれが真実かは土の中次第。
 今城塚古墳からの発掘された物はたくさんあったが、継体天皇の方に興味を持った。継体天皇は、悪行を尽くした武烈天皇の次の天皇であるが、百田尚樹「日本国紀」によれば、武烈天皇から遠く離れた血筋であり、しかも、即位までにかなり時間が経っていて、さらに天皇に「継体」なんて名前を付けるかということで、この間になんらかの勢力争いがあり、王が入れ替わったのではないかとの案を紹介していた。
 継体天皇は近江の生まれ。晩年、朝鮮に出兵しようとしたところ、筑紫君磐井の乱が起きたため物部麁鹿火を送り乱を鎮めたことで知られている。樟葉宮、筒城宮(綴喜)、弟国宮(乙訓)と移り住み、最後は磐余玉穂宮で崩御している。藍野(安威)に葬られたとの記述から、現在太田茶臼山古墳継体天皇陵とされている。これはどうやら本居宣長がそう言ったらしい?それより昔は今城塚古墳が継体天皇陵と伝えられていた形跡があるとのこと。放射性炭素測定による時代特定では今城塚古墳の方が継体天皇の頃と合致するらしい。
 近くの新池遺跡からは窯がたくさん見つかっていて大規模な埴輪工房があったらしい。日本書紀には埴廬(はにいほ)と書かれる場所があると記載されており、そこに該当すると言われている。
 最後に阿武山古墳昭和9年に中からミイラが出てきた。特筆すべきは、夾紵棺(きょうちょかん)が使われていること。これは中が漆で覆われている棺で、最上級の人物が葬られている可能性があるそうだ。ミイラは腰の骨が折れており、落馬して亡くなった藤原鎌足ではないかと言われている。もし、本当ならなかなか凄いことだ。是非とも放射性炭素測定で年代をはっきりさせて欲しいところだ。
 12時、今城塚古墳。ここは天皇陵かもしれない古墳であるにも関わらず、自由に中に入ることができた。全国で22番目の大きさであり、一目見ても古墳だとはわからないくらい大きかった。山は雑木林になっていて、あちこちに山道ができていた。案内板があちこちに設置されていたが、発掘時の写真だけですべて埋め戻されているようだった。
 巡礼橋バス停からJR摂津富田駅まで。阪急まで歩く途中で「餃子の王将」を見つけたので昼食。阪急富田駅から高槻市駅まで。
 13時半、高槻市立しろあと歴史館。高槻城キリシタン大名として有名な高山右近が住んでいた。展示では、高山右近の時代、住民の8割がキリスト教だったとか。フランシスコ・ザビエル肖像画が見つかった千提寺も江戸時代は高槻藩領だった。あとは高槻城の変遷など説明されてたけど、あんまりかな?せめて明治の廃城になる時の話とかがあればよかったのだが?
 特別展「郷土玩具くらべ推しどっち?」をやっていた。島本町に郷土玩具を集めてる人がいて、ここに寄贈したらしかった。Oさんという人だったが、滋賀のOさんも島本町出身だったんだよな。もしかして、親戚とか?
 展示は招き猫とか、犬、鯛、鯉、フグ、キツネ、タヌキなど、いわゆる縁起物の置物だった。張り子、土人形、木製品など。高槻とはあまり馴染みはないけど、縁起物はほのぼのしてて和むんだよなあ。
 外は暑くて死にそうだった。自販機でお茶を買って飲んだ。
 1515、高槻市立歴史民俗資料館。江戸時代の商家を移築したもの。ほとんど中身がなくて驚いた。高槻市は歴史民俗資料館という名前をつけて一体何がしたかったのだろう?
 帰り道も殺人的な暑さで倒れそうだった。外に出るのが自殺行為に思えた。
 1640、ガスト。かき氷を食べた。昨年からガストでかき氷があるのをチェックしていた。すき家にもあるみたいだし、そのうちどこでもやり始めるかも?
 阪急高槻市駅から大宮駅まで。バスで大宮五条。
 1740、東横イン五条大宮。今日もベッドで寝っ転がってブログを打った。
 今一番行きたいところに行ってみて、意外と楽しかった。ただ茨木も高槻も説明が淡白で、あんまり力を入れてないように思えた。ちょっと中身がマイナーにせよ、もう少し気合い入れて説明して欲しかったなあ。あれでは子供にはわからず、大人には簡単すぎる。