びーの独り言

どこいくの?どっか。

2023/10/09(月)祝「南信」

 三連休の最終日。道の駅南信州とよおかマルシェ。夜中には1回起きた。トイレに行ったら、若者たちがランタンを持ち込みベンチでしゃべっていた。楽しいのはわかるけど、うるさい。明日もあるんだから早く寝ろよ。起床は550。まだ雨は降っていた。朝食後、昨日のブログを修正した。745、出発。
 今日は南へ進んで浜松から帰る予定だった。この辺りは南信と呼ばれ、まともな道があるかもよくわからなかった。飯田線沿いに進むか、一つ東の谷筋になる下栗の里を目指すか迷った。飯田線沿いは道がない恐れがあったので、下栗の里を目指すことにした。755、給油。
 山は小雨が降っていてモヤっていた。これでは眺望は期待できないかもしれない。山を上ると初っぱなから生活道路のような細いくねくね道となった。そのまま進んでいると、急にそれまでの道とは釣り合わない高規格の巨大構造物が現れた。三遠南信道の矢筈トンネルだった。三遠南信道はブツ切れになってる道だった。この辺りにまともな道路がないのは中央構造線のせいでもあった。トンネルを掘っても崩れてしまうらしい。
 飯田線から東に一つ山を越えたところは、川が流れていて周りは高い山に囲まれていた。まるで鯖街道のようだった。あまり人家はなかった。ところどころ工事をしていて交互通行になってた。この先も大丈夫だろうか?上村という小さな集落が出てきた。下栗への表示が出たので左折。ひたすら一車線のぐねぐね道で高度を上げた。
 855、下栗の里駐車場。下里の里は南斜面に取りつき高低差は200mにも及んだ。その姿から「日本のチロル」と呼ばれていた。どうやって生計を立てているのだろうか?景色は予想通り霧で見えなかった。徒歩20分のところに集落を一望できる展望台があったが、行くまでもなかった。想定内とは言え残念だった。なぜ行ったのか?
 上村集落に戻り、再び南に進んだ。思いがけず小さな車両が現れた。920、梨元ていしゃば。説明書きによれば、遠山森林鉄道の起点のようだった。ここは森林鉄道を観光資源として活用しようとしてるようだった。機関車が小さな車庫に収まっていた。また小さな周回コースが設定されていた。乗車体験もありそうだったが、閑散としているので今ではやってないのかもしれない。驚くべきことに同業者が一人いた。こんな山奥で出会うとは。この人は脚立まで持ってた。世の中にはいろんな人がいるんだなあ。
 940、旧木沢小学校。ここには昭和7年建築の木造校舎があった。こういう展示は今までありそうでなかった。私の入った小学校には1年の時だけ木造校舎があった。とても趣のある建物だったが、一年で取り壊されてしまった。だからか余計に興味があった。木造校舎の木の廊下や木の階段は歩くとギシギシと鳴った。教室には木の机と木の椅子、そして黒板。オルガンやダルマストーブもあった。たくさんのグッズが置いてあって、そのどれもがが懐かしく思えた。もう二度と戻らない時代に思いを馳せた。母校の教室はまだあるのだろうか?
 教室ごとに展示が変わって、郷土資料館のようになっていた。特に遠山森林鉄道の説明にはひかれるものがあった。森林鉄道の活用事例はあんまりないんだよなあ。とても印象に残る場所だった。
 10時半、出発。ここでも南下するか山越えして飯田線に渡るかの二択となった。南下すると林道となり兵越峠から水窪に出ることができた。ここも曰く付きの難所であり是非行きたい場所ではあったが、飯田線大嵐駅の方がもっと気になっていた。ここには廃止された夏焼トンネルがあった。
 トンネルで山を越えると、飯田線の駅のある平岡に出た。わずかな土地に折り重なるようにして小さな家がひしめき合っていた。飯田線があるから栄えたのだろうか?
 そのまま南下すると、天竜川沿いの崖にへばりついた車がギリギリすれ違えるような道となった。曲がりくねって一歩間違えば崖下に転落するようなとんでもない道だった。エメラルドグリーンの川面が見えたが、楽しむ余裕はまったくなかった。これでは先ほどのまでの道の方が全然マシではないか?飯田線沿いは飯田線しか交通手段がないと聞いていたが、本当にそうかもしれないと思った。
 やがて大きな鉄橋で天竜川の対岸に渡る地点にやってきた。真っ直ぐ方向にも小さい道が延びていて、「中井侍」と書いてあった。中井侍には秘境駅がありとても興味はあったが、秘境駅とは到達困難だから秘境駅である。車で行けるかもわならなかった。とりあえず中井侍をスルーして、鉄橋を渡った。するとその先には道の脇に「この先通行止」と書いた看板があった。こういう看板って案外行けることもある。それにこの道が通行止になってたらどうやって浜松まで行くのよ?構わず直進した。
 脇道で天竜川を渡る小さな橋が出てきた。ここも「中井侍」となっていた。無視してそのまま真っ直ぐ進んだ。対岸の山の凄い高い勾配のきつい斜面には民家が見えた。マジかよ。あんなとこに人が住んでるのか?中井侍かもしれないと思った。
 1105、本当に通行止となったorz。ウソだろ?どうやって浜松に行けばいいんだよ?Uターン。小さな橋を渡り中井侍の方に行ってみた。誰も通ってなさそうな獣道みたいになったので戻った。
 再び大きな鉄橋を渡った。飯田線の駅があった。何駅だろうか?すぐそばはトンネルになっていた。1115、伊奈小沢駅。こんな崖の中腹に2面2線の対向式ホーム。ホームには小さな待合室。ホームからは天竜川がよく見えた。民家は数えるほどしかなかった。なぜここに線路を通したのか?アイヌの川村カ子トが測量したと言われるが、あまりにも険しすぎる場所だった。
 何もせずにUターンして戻るのはしゃくだった。中井侍に行くことにした。山の中の薄暗い一車線の道を走った。どんどん高度を上げていった。路面には落ち葉がたくさん落ちていた。本当に行けるのだろうか?中井侍にたどり着いても駅は離れた場所かもしれない。不安だらけだった。やがて目の前が拓けて、眼下の急な斜面には茶畑が広がっていた。ここか?中井侍には茶畑があることを知っていた。道は見たこともない強烈な九十九折で下へと降りていった。もし行き止まりだったらUターンできるだろうか?迷いながらも降りていった。
 看板で中井侍駅の矢印がでた。そこには和泉ナンバーの車が一台停まっていた。ここか?車を停めて、下り坂を降りていった。道の先にはガードレールで通せんぼしてあった。そこには3人いた。視線を感じながら降りていった。3人は親子だった。特急伊奈を狙ってるようだった。
 ガードレールの先はホームになっていた。1140、中井侍駅。ホームは崖の中腹にありカーブしていた。幅は狭くて、通過電車が来たら危なそうだった。ホームの上には待合室があった。誰がここまで来て使うのだろうか?中井侍駅に来れて大満足だった。鉄道ネタは後々まで記憶に残るはずだ。
 結局、平岡の町から山越えで先ほどの道に戻った。南にある兵越峠を目指した。この道がダメだったら浜松に行く手段は飯田線だけになってしまう。途中で青崩峠への道が出てきた。これは中央構造線を通ってるために崩壊した道だった。名前からしてヤバそうであり、実際通行止となっていた。
 兵越峠は林道だったが、浜松までのルートだから、もしかしたら整備されてるかもしれないと期待した。当然、そんなことはないわけで、舗装はされてたけど、ぐねぐねのぐちゃぐちゃだった。どこを走ってるのか方向感覚がなくなるまで曲がりくねっていた。サミットを越えて下りの途中で「この先通行止。水窪市街には行けます」という不吉な看板が出てきた。飯田線の駅のある水窪まで行ければなんとかなるかも?
 峠を越えると、それまでの林道とは似つかない高規格のトンネルが出てきた。これは三遠南信道を作ろうとして崩壊したトンネルで草木トンネルと言った。トンネルは内部でS字カーブしており、ルート変更したためだと考えられた。
 道は深い谷間を走り、一向に水窪の町が出てくる気配はなかった。本当に町なんかあるのだろうか?
 水窪はほんの少しだけ開けていた。町というより、集落が大きくなっただけだった。飯田線が通っているのは後述する佐久間ダムの建設により一部区間が水没したためであり、トンネルを2つ掘って一つ隣の川筋である水窪に避難していた。
 1310、第六水窪川橋梁。通称渡らずの鉄橋。この鉄橋は川を渡ると見せかけて渡らない鉄橋だった。これは掘っていたトンネルが崩壊してルート変更が必要になったためだった。
 水窪の町を過ぎると、町があったのがウソのように深い谷筋に戻った。なぜ水窪の町ができたのかよくわからなかった。また一つ隣の川筋に戻った。飯田線もそちらに移っていた。ここは佐久間駅があり、少し開けていた。昔ここには佐久間レールパークがあった。なんでこんな山奥に作ってしまったのか?
 1340、佐久間ダム。川村カ子トな作った飯田線を沈める原因となった巨大ダム。水没区間はHP「山さ行がねが」で探索されていた。今回、飯田線はポイントでしか探索できていないが、いつかきちんと回りたい。
  ここから飯田線から離れて、また隣の川筋に戻った。ひたすら南下。ここの川はいつの間にか天竜川になっていた。因みに飯田線中部天竜駅から二俣線天竜二俣駅の間は国鉄佐久間線として工事が進んでいた。国道は天竜川に沿った。雄大な流れはまさに紀伊山中を流れる熊野川のようだった。
 やがて川幅が広くなり漕艇場が現れた。そこには歩道の鉄橋があった。1450、夢のかけ橋。これは佐久間線のために建設した橋脚を利用したものだった。北恵那鉄道の木曽川橋梁ほどではないが、強烈な構造物だった。赤い鉄橋は美しくて湖面にリフレクションしていた。もし、ここに電車が走ったら撮影スポットになっただろうな。
 ここで探索は終了した。船明ダムを越えて、浜松市天竜区から浜北区となった。
 1535、さわやか浜北店。さわやかは3/18以来半年ぶり。幸いにも22分待ちだった。ハンバーグ&ステーキ、Bセット(サラダとライス)、ライス大盛。オニオンソースは相変わらず鮮烈だったが、以前のような驚きはなかった。これはステーキ宮のせいだと思われた。近いうちにステーキ宮に行ってみるか。
 17時、帰宅することにした。外は土砂降りの雨だった。1710、給油。浜北ICから新東名。1740、掛川PA。久しぶりの生肉でお腹が痛くなってしまった。渋滞に巻き込まれる前にトイレを済ました。1820、出発。19時半、足柄SA。1945、出発。20kmの渋滞はなくなっていた。2140、帰宅。
 木曽路は、宿場町ばかりで、トピックとしては島崎藤村和宮の降嫁が挙げられた。中津川から付知は裏木曽街道であり、思ったより栄えていた。飯田から浜松にかけては強烈な山であり、まともな道が通ってないことが確認できた。あとは泳いでるおかげで体力ついたことが実感できた。山道も苦にならなかったし、夕方になって疲れることもなかった。印象に残る旅行だった。