びーの独り言

どこいくの?どっか。

2023/08/20(日)「美瑛」

 道の駅南ふらの。起床は350。激しい雨音に起こされた。ずっと雨だった。昨日のブログを修正して、605、出発。
 すぐにセイコーマート富良野店。ホットシェフには何も並んでなくて、普通に納豆巻きにした。おいしかった。
 6時半、出発。雨は土砂降りだったが、昨日に引き続き根室本線の来年廃止される区間を回ることにした。
 635、根室本線東鹿越駅。かなやま湖に面した寂しい場所だった。駅前にはなぜか観光バスが停まっていた。運転手さんもいなかった。どこかにホテルでもあるのだろうか?ちょうど電車が1両滝川方面に走っていった。あれっと思った。テスト走行かと思ったら、東鹿越駅までは営業中だった。時刻表によれば、今行ったのは始発だった。土砂降りの中で傘をさして独り駅の写真を撮っていると、トイレから運転手さんが出てきた。
 650、出発。かなやま湖は少し水位が減って底が見えていた。水位が減ると、旧線が見えるそうだが、わからなかった。かなやま湖の畔ではたくさんの人がテントを張っていた。土砂降りの雨で残念だったろう。
 715、金山駅。赤レンガのランプ小屋があった。かっこいいラッセル車が停車していた。
 735、下金山駅。駅舎からホームへの距離が少しあった。wikipediaによれば、そのスペースには線路が2本あったとのこと。
 750、山部駅。ホームは千鳥配置だった。ここにもランプ小屋があった。
 810、布部駅。富良野の町の中だった。町の中でも廃止されるんだな?ここも駅舎とホームが離れていたが、間には2本の線路が残されていた。
 南富良野セブンイレブンでトイレ。これからの作戦を立てた。旭川に行くのは決まっていた。根室本線沿いを北上するか、富良野線沿いに美瑛方面に行くか?根室本線の方は面白くなくて時間が余ったらでいいような気がした。美瑛は行ったことがあるので、美瑛を通過して旭川に行くことにした。
 9時、出発。北に向かっていると、雨は降っていたが、遠くの山は晴れて来ていた。モヤってた山が見たこともない深い青色となった。とても美しい景色だった。この辺りはやはり普通の景色とは違うと思った。隠そうにも隠しきれない魅力があった。
 晴れてきたので青い池に行くことにした。青い池には行ったことがなかった。山の中を10kmくらい進むようだった。どこまで行くんだろうと思ったら、駐車場はめっさ混んでいた。
 950、白金青い池。雨は止んでいた。空は雲がわいてすっかり夏の青空だった。めっちゃ外国人がいた。韓国語と中国語が飛び交っていた。なんで日本に来てこんな山奥に来てるんだ?ここは嵐山みたいに外国人ホイホイに違いない。池は青と言うより水色とエメラルドグリーンの中間だった。池の中では何本もの木が立ち枯れしていた。美しい景色と引き換えに生物には死の世界だったかもしれない。別府だったら地獄と呼ばれてるだろう。青い色はアルミのコロイドが原因とのこと。おそらく黄色を吸収して、補色の青空になるのではないかなど考えていた。想像以上に美しい場所だった。来てよかった。
 10時半、出発。ここまで来たらついでに美瑛の丘を目指すことにした。美瑛の丘には2、3回行ってていくつかの木とパッチワークの丘があった。
 11時、ケンとメリーの木。日産スカイラインのCMで使われたらしかった。知らんけど。とても高い木が1本生えていた。ちょうど韓国人のバスの一団が到着したばかりで、ピーチクパーチク傍若無人にやられた。人が入らないように写真を撮るのは不可能だった。空はとても夏の青空で吸い込まれるような雲だった。木よりも空が印象的だった。
 1110、マイルドセブンの丘。マイルドセブンのCMで使われたらしい。知らんけど。元々違う場所だったのだが、畑の持ち主が不法侵入者が多いのに怒って木を切り倒したとのこと。緑の丘の上には数本の木があった。フレームにギリギリ入った。どこか役不足感が否めなかった。訪れる人も少なかった。
 11時半、親子の木。知らなかった。丘の上に2本の木がポツンと立っていた。本当に親子関係だろうか?どちらが親だろうか?正直、木に名前を付けるのは、岩礁に名前を付けるのとあまり変わりようがないような気がした。
 1135、セブンスターの木。これもCMで使われたらしい。知らんけど。木の真下に軽トラが停まっていて、おじさんが敷地境界に杭を打ち込んでいた。どうやっても軽トラが写りこんだ。なぜそこに停める?なぜ夏休みの日曜日にする?おじさんは念入りにガンガンと打ち込んでいた。まるで何かに怒っているのを杭に叩きつけてるかのよう。観光客へのパフォーマンスにも思えた。作業が終わって軽トラに乗り込んだかと思ったら今度はなかなか発車しなかった。こちとら暑いのを我慢して待ってるのに。なんかわざとやられているような気がしたので、他のとこを写真撮ってたら、いつの間にか軽トラはいなくなっていた。
 1150、出発。黒い雨雲がわいてきていい写真が撮れなさそうなので旭川に向かうことにした。
 12時半、蜂屋五条創業店。私は旭川醤油ラーメンが好きだ。しかし、「梅光軒」も「青葉」も違った。蜂屋はどうだろうか?ダメ元で駐車場に行くと1台ハザードを点けて待っていた。後ろに並んだ。5分くらいで停めることができた。
 しょうゆチャーシュー大盛半熟煮たまごのせ。焦がしラードが特徴のようだった。スープには黒い油滴がたくさん浮いてた。何かが焦げた独特の味だった。焦げが強くて旨味はなかった。麺は細くて、スープとの絡みはあまりだった。チャーシューも煮たまごも若干醤油の塩辛さがあった。どれもあっさり目でまとまっていた。おいしいという感じではなかった。不思議なラーメンだった。何回か食べないとわからないかも。ただ求めていた醤油とは全然違ったなあ。
 1310、川村カ子トアイヌ記念館。旭川に来たのはここが目的だった。川村カ子トは鉄道の測量技師で、あちこちの鉄道の敷設に関わった。特に飯田線の前身である三信鉄道だの仕事が有名だった。この博物館はお父さんが作ったものをカ子トが引き継いだ。今はカ子トの息子が引き継いでいた。
 展示内容は簡潔だったが、他にはない情報があった。アイヌ女性の写真はいつも口紅のようなものが面積が大きく塗られていたのだが、これは大人になったら入れ墨していくものだった。他にはイヤリングなどの装身具を着けた。これらは土人保護法によって禁止された。法律が変わった今ではアリなんだろうな?
 お客さんは西洋人だらけだった。ツアーだろうか?チケットを切ってくれたお姉さんが、アイヌの格好をして舞台に上がった。トンコリというアイヌ楽器を演奏した。これはウポポイでも聞いた。ビヨーンビヨーンと不思議な音がした。続いて、アイヌ語の即興の歌を歌った。もちろんどういう意味かはわからなかったが。メロディは繰り返しで、歌詞もリフレインを多用していた。
 14時、出発。他に旭川アイヌの施設がないか調べた。
 1415、「アイヌ文化の森伝承のコタン」資料館。基本的に植物園であり、アイヌの話も植物絡みで僅かだった。
 1440、出発。近くにある旧函館本線の駅に向かうことにした。
 15時、神居古潭駅跡。ここは昭和44年に函館本線が複線化される際に廃止された。ここは公園として整備されていた。石狩川に面しており、付近は川の難所であった。駅の前は橋になっていて石狩川を渡っていた。駅は崖に張り付くようだった。駅舎、ホーム、レールが残っていた。さらにSLが3台置かれて、トンネルもあった。路盤はサイクリングロードになっていた。
 15時半、出発。山の中を南へ芦別に向かった。ここには芦別線を通す計画があった。芦別線は函館本線の深川から根室本線芦別を結ぶ計画だった。確か目的は函館本線根室本線スイッチバックなしで貨物を運ぶためだったような?新城から芦別までは路盤が完成してたと言われる。
 新城を通り過ぎた時に、田んぼの中に怪しげな堤防が見えた。川が流れてるのかと思ったら、堤防が途切れている箇所があった。明らかに未成線跡だった。ボックスカルバートもあった。こんなに簡単に見つかるとは思ってなかった。この付近は山ではなくずっと平地だった。だから鉄道を通そうとしたのだろう。
 芦別駅からは三井芦別鉄道の廃線跡を探索した。三井芦別鉄道は芦別から頼城(玉川停留場)までを結んでおり、石炭を運んだ。
 16時半、三井芦別駅跡。駅舎はリサイクル会社が使用してるようだった。周りは古い建物ばかり。炭鉱時代のものだと思われた。
 1635、炭山川橋梁。橋梁の上には機関車と客車が乗っていた。これが最大の遺構だった。これ以上ないエモい展示方法だった。
 頼城では突如集落が現れた。2階建ての市営住宅みたいなのがたくさん並んでいた。でも、作りが古いのか窓には板が打ち付けられたりしていた。炭鉱なき今ここに住んでる人はどうやって暮らしているのだろうか?頼城では石炭が積み込まれていたが、その痕跡は草ぼーぼーでわからなかった。
 終点の玉川停留場に行った。ここも草ぼーぼーなのを見届けただけだった。
 17時、出発。歌志内に向かった。途中、古いガソリンスタンドで給油した。おばあさんが出てきた。カードを渡すと落とせなかったと言われた。どういうこと?現金で支払った。話しかけられたのでずっと話しこんだ。こちらが一方的に質問されて答えるスタイルだった。
 1750、悲別ロマン座。倉本聰のテレビドラマで使用した三角形の建物。今は喫茶店になってるようだったが、休業中のようだった。
 1755、歌志内駅跡。「郷土館ゆめつむぎ」になっていた。時間が遅くて閉館していた。中から職員らしき人が出てきた。その人以外歌志内では歩いてる人を見かけなかった。歌志内は日本で一番人口の少ない市だった。
 再現の駅名標があった。歌志内市にあった5つの駅にそれぞれ設置されてるようだった。駅名標の裏側には当時の駅舎の写真をバックに駅の説明が書かれていた。
 1805、歌神駅跡。入場券ブームの時に売れたらしい。
 1810、神威駅跡。「かもい」と読む。石炭を積み出す時には60人が働いてたらしい。まったくそんな面影はなかった。
 1820、西歌駅跡。比較的新しくできた。路盤はサイクリングロードになっていた。ジョギングしてる人がいた。
 とても疲れていた。夕方になると疲れるのかもしれない。セイコーマート歌志内店。麦茶とハイチュウを買った。
 1840、文殊駅跡。なかなか見つけられなかった。国道から一本外れていた。
 1845、焼山駅跡。ここは砂川市となった。車輪を型どったモニュメントが立っていた。
 1915、セイコーマート砂川東1条店。疲れはてていた。昨日風呂に入ってないので今日は入りたいし、ブログも全然書けてなかった。ここはホットシェフではなく、弁当はほとんど売りきれていた。おにぎり2つと焼き鳥を買って、車内で食べた。ドーンと花火の音が聞こえた。背後では大きな花火が上がっていた。結構遭遇するものかもしれないなあ。見に行く気力まではなかった。
 1950、出発。滝川の数%を目指した。辺りは暗闇だった。
 2015、滝川ふれ愛の里。しばらく車の中でツイッターを投稿した。2040、入場。630円。安い!施設もなかなかよかった。泉質はわずかにぬるぬるだった。22時の閉館までひたすらブログを打った。
 22時半、道の駅うたしないチロルの湯。暗闇に2台車が停まっていた。とても静かだった。行けるとこまでブログを打った。眠くなったので続きは明日にした。