びーの独り言

どこいくの?どっか。

2023/08/17(木)年休「エスコン」

 道の駅いわない。起床は455。まあまあ眠れたのは車の通過音がしなかったからか?トラックのエンジン音がしてたけど、ずっと鳴ってるから気にならないのかも?フェリーよりはマシと思えばいい。昨日のブログを修正して、6時に出発。
 セイコーマート岩内万代店。和風ツナマヨおにぎり。そのままそこで食べた。
 615、出発。ずっとここの海沿いを瀬棚まで走りたかった。まず寿都へ向かった。道中美しい虹が見えた。きれいだったけど、空気は不安定だということかな?ここには雷電岬という険しい地形があった。トンネルを抜ける度に天気が大きく変わった。天気ってそういうものなのかな?
 7時、寿都鉄道寿都駅跡。役場に再現の駅名標が置かれていた。ここははこくろさんのツイッターに出てきた。各駅に駅名標が置かれてるようだったが、これ以上回るつもりはなかった。wikipedia寿都鉄道のことを調べたら、お金がないのに見切り発車して最後借金まみれで潰れたようだ。寿都と岩内を結ぶ計画があったようだが、あんな険しい地形をどうやって結ぶつもりだったのか?何もかも見通しが甘いと思った。
 715、出発。瀬棚に向かった。
 720、弁慶岬。弁慶の銅像が立っていて、近くには灯台があった。弁慶かというと伝説があるらしいが、どうせアイヌ語の「ペンケ」辺りがなまったんだろう?
 735、出発。島牧村を通り過ぎた。どんなところだろうかと思っていたが、案外道はよかった。村だからそこにお金を使ってるのかな?小さな漁村をいくつも抜けた。やがて、険しい地形となった。海は荒れて雨も強くなった。
 825、茂津多岬灯台への入り口が現れたので行ってみた。1車線の危なっかしい道で、たくさんの小枝が落ちていた。あと1kmのところで倒木が2本あった。残念だが、引き返すことにした。もしかすると、閉じ込められるかもしれない。速攻脱出した。
 荒れている海の写真を撮ろうと粗とに出た。横殴りの雨が全身に襲いかかった。少し顔を舐めてみるとしょっぱかった。波しぶきか?
 850、瀬棚駅跡。3か月ぶりぶり3回目。ペース早すぎでしょ?
 期待せずに岩シューを調べると、9時から開いてるようだった。曜日が厳しかったはずと思って調べると、木曜日は岩シューの日だった。これはいけるかも?店に行くと、シャッターは閉まっていた。「19から始まります」と書かれていた。
 海水浴場の駐車場で身支度したり、調べものをした。このまま来た道を日本海沿いに戻って小樽へ向かうか、それか今金から長万部に抜けて太平洋側を戻るかを考えた。行きそびれた博物館に行きたかったので、太平洋側を選んだ。9時半、出発。
 長万部までは3か月前に瀬棚線の廃線跡探索で通ったばかりだった。しかも、今回で3回目。面白味はなかったし、廃線も探さなかった。
 長万部からは険しい山になった。ここは秘境駅で有名な小幌があった。とあるYoutubeチャンネルによれば、国道から小幌駅にアプローチできるようだった。でも、国道はだいぶ海からは高いところを走っていて、とても駅に行けそうな感じがしなかった。ナビが目的地に到着したと告げた時、そこには礼文華トンネルがあった。情報通り入口には車を停める小さなスペースがあった。こんなところ降りれないだろと思ったら、1台の車が停まっていた。まさか降りてる奴がいるのか?
 昨日洞爺湖で逃した博物館を狙った。レストラン望羊蹄を通過すると、洞爺湖は今日も曇っていた。もう写真を撮るつもりはなかった。
 昭和新山の駐車場に到着すると、3回目にして初めて料金を徴収するおじさん達に遭遇した。おじさんは「今日有珠山ロープウェイはやってないけどいいですか?」と言った。私は「三松正夫の博物館やってますか?」と聞いたら、「あそこは開いてるか開いてないかわからないんだよ。そこに無料駐車場があるから停めたら」と言われた。
 1135、昭和新山資料館三松正夫記念館。26年前にやすをと来たような気がする。三松正夫は昭和新山の成長の記録をした人で、その成果はミマツダイヤグラムとして火山を形成する過程を知る上での貴重な資料となっている。ここは三松正夫の親戚が運営していた。
 今日は暗いながらも電気がついていた。中に入るとおばあさんがいた。入館料を払うと、おばあさんは展示室の電気をつけた。
 展示室の展示物は雑然としており、かなり時代を感じさせるものだった。なんか読むの大変だなって、渋々読み始めたらとても面白くてびっくりした。
 三松正夫がなぜ昭和新山の記録を録ることごできたのか?これはさまざまな偶然が重なった奇跡の産物だった。第一に、三松正夫は絵を勉強していた。第二に、20代の頃に明治に起きた有珠山の爆発の調査を手伝っていた。後に明治新山と言われる地面の隆起である。学者からは「有珠山は30年周期で爆発しており、その時には地面が盛り上がる可能性が高い。だからなんでもいいから記録するんだよ」と言われていた。第三に、実際に地面が隆起したこと。これが一番難しい。いつ遭遇するかわからないからだ。第四に、観測機器を自作して毎日4回にわたり正確に高さの変化を測り、絵を書き続け、様子の記録を録り続けたこと。しかも、豆の転がりから地震も観測していた。普通の人だったら、地面が盛り上がってるなあで終わりだろう。この時は戦時中であり、特にこのような観測は難しかっただろうに。
 三松正夫は郵便局の局長をしていた。畑が盛り上がって住めなくなった人たちの土地を買い集めて生活を支援した。従って、昭和新山は私有地でもある。
 三松正夫の記録は後に国際的に高い評価を受けることになった。そして、数々の行動は小学校の教科書に記載されるまでになった。私が昭和新山について、鮮烈に覚えているのも教科書に書いていたからかもしれない。26年前にやすをと来た時は、ふーんで終わっていたけど、今回はあまりにも凄い話で深く感動した。
 三松正夫は、戦時中に他にやらなければいけないことがあったのではないかと考えていたらしい。それも実直な人柄を表しているような気がする。三松正夫は昭和後期の爆発も見届けた後に亡くなった。これもまた有珠山に生涯を捧げた人の運命を感じる。
 望羊蹄に行ったが、たくさん行列してたので諦めた。
 1245、横綱北の湖記念館・壮瞥町郷土史料館。横綱北の湖は、私が子供の頃に強くて仕方ない存在だった。いつも館内放送の時に「横津北の湖北海道有珠郡壮瞥町出身三保ヶ関部屋」と流れていた。そのため壮瞥町という名前に聞き覚えがあった。「北の湖」の「湖」は「みずうみ」ではなく「うみ」と呼ぶのが不思議だったが、今さらながらこれは洞爺湖のことであると気づいた。
 北の湖の現役時代は憎らしいくらい強くヒールのような役割だった。それは目付きが鋭く強面で、コメントも面白くなかったからだろう。横綱の最後の方は弱くてどうしようもなかったが、昭和59年5月場所に突如全勝優勝した。そして両国国技館の土を踏んでから引退した。
 親方になってからは圧倒的な人望と安定感があった。理事長になってからの活躍は、史上初の理事長返り咲きを果たしたことでも伺える。北の湖親方が場所中に倒れて亡くなった時には、新聞各紙で大々的に報道された。とても悲しかったのを覚えている。
 この博物館は、地元の郷土資料館を兼ねていた。昭和新山胆振線の展示があった。胆振線の展示は思いがけないものだった。
 1350、出発。登別に向かった。伊達ICから道央道で登別東ICまで。
 1435、知里幸恵銀のしずく記念館。10年来ずっと来たかったが、一昨日は休館日だった。諦めきれなかった。ここは「アイヌ神謡集」でアイヌの神話を初めてローマ字表記した知里幸恵関連の資料が展示されていた。
 知里幸恵は祖母と伯母さんがアイヌ語話者で、アイヌ語に囲まれて生活していた。しかし、時代の流れによりアイヌ語は禁止され、日本語の教育を受けなければいけなかった。15歳のある日、言語学者金田一京介からアイヌの文化を後世に伝えていくことがたいへん意義深いことを教えられた。ここで幸恵は文字を持たないアイヌ語を紙に記録していくことを決心する。伯母さんにローマ字を習い、アイヌの神話をローマ字で記録し、日本語訳をつけた。ローマ字表記の際には、それまで母音で終わっているとされていた単語が実は子音で終わっているという、文法上重要な指摘をした。知里幸恵は19歳で「アイヌ神謡集」の校正をした直後に持病の心臓病で亡くなった。まさに命を賭けた作業だった。
 私は10年以上も前に「アイヌ神謡集」を買いながら、まだ序文しか読んでなかった。この序文が名文過ぎて、いつも涙が出るのだ。こんなにもせつなくて心を動かされる文章はない。この序文があるからこそ、アイヌの文化に惹かれると言っても過言ではない。
 ここでは知里幸恵の生涯について解説するとともに、金田一京介や家族との書簡が公開されている。書簡の内容は学校生活を書いたものが多く、紙の上には小さい字でびっしりと文字が書かれていた。文字を書くことが好きだったのかもしれない。どれも貴重な内容でありとても興味を惹かれた。
 伯母さんは幸恵の死語に幸恵の仕事を引き継いで、多くの記述を残している。また弟は言語学者になり北海道大学の教授になった。アイヌは北海道旧土人保護法により、とても酷い差別的扱いを受けていたが、今日では法律は廃止され、先住民族として認められて、文化にも大きな注目を浴びるようになった。知里幸恵の果たした役割はとてつもなく大きかった。
 1645、出発。今年開場したエスコンフィールド北海道に行くことを思い付いた。元々今回のどこかで行くつもりにしていた。今日が旅行期間中では試合のある最後の日だった。白老ICから道央道で輪厚SICまで。
 18時過ぎに到着した。球場の壁はガラス張りになってるのか外からでもスコアボードが見えた。とても近未来的でかっこよかった。問題は駐車場だった。事前調査では3500円するらしい。正直、北海道まで来て、今後ずっと思い出として残るのなら、払うだけの価値は充分あると思っていた。駐車場は物凄く広くてたくさんあったが、どれも予約が必要となっていた。何度もトライしてはガッカリするのを繰り返した。
 そのうちコインパーキングを見つけた。空いていた。値段を見ると24時間3000円。いける!人生で最も高いコインロッカーに喜んで駐車した。
 FULLTECH GATEと書かれたところに行くと、自動改札しかなかった。チケットがないとダメなのか?係の人に「当日券はどこで買うんですか」と聞くと「ここではわかりかねますが、サードベースゲートに行かれてみては」と言われた。
 3rd BASE GATEに行くと、ここからも中の様子が透けて見えた。誰かがホームランを打ったところだった。ゲートの端にチケット売場があった。空席の表示ではほとんど△であり、まずは一安心。「7時から1000円引きになります」と言われた。あと5分後だったので待つことにした。ビジターはロッテだったので、三塁側の内野を選択。ホームよりは不人気であろう。1000円引きで3500円だった。
 改札を通り中に入ると、グラウンドが近かった。さすが評判通り。まずは食糧を探した。どこもたくさん並んでいた。その中で全然並んでないところがあった。並びたくなかったので、そこにした。「かわむら」、おにぎりを売っていた。北海道セットは2100円。鮭はらす、いくら醤油漬け、たらこチーズ。冷静に考えれば、1個700円なんてありえなくないか?完全に気持ちが大きくなっていた。
 席は2階だった。10人がけくらいの真ん中だった。球場は何もかも新しく見えた。照明がLEDなのだろう。ライト側の上部には巨大なスコアボードがあった。ラインナップやスコアが、ファイターズのチームカラーである水色をバックにして色鮮やかに表示されていた。
 3回裏終了後、昨年大きな話題となったキツネダンスが始まった。遠目に見ると小さくて、スマホで拡大するとぼやけて、鮮明なのは音楽とスコアボードだけだった。
 4回裏先頭の万波がホームランを打った。レフトにライナーで伸びていった。ホームランっていつもあっけないんだよなあ。TVの方が興奮するというか。
 隣の2人が野球通のようで、いちいちイベントのタイミングを教えてくれた。5回裏終了後、YMCA。8回表終了後、ジンギスカン。8回裏終了後、鮭。ファイターズのファンサはこういうことなんだな。千葉マリンも頑張ってるけど、さらにレベルアップした感じ。
 よくよく球場を見渡すと、定番のバックスクリーンがないことに気づいた。バックスクリーンの場所は、ガラス張りになって外が筒抜けだった。また、照明の位置も普通と違っていて、表現しにくい位置についていた。応援席は通常外野席だが、ここでは内野三階席にあった。応援がよく聞こえた。グラウンドの走塁部分は土で、残りは天然芝。ファールゾーンは人工芝。
 試合結果はロッテ0ー5×日ハム。完封リレーで日ハムの勝利。勝ち投手マーベル2勝1敗、負け投手美馬1勝7敗。館内放送で16回戦と知った。球場が暗くなって、皆がペンライトを振りだした。とてもきれいだった。ヒーローインタビューが始まった。先制2ランの王、勝ち投手のマーベル、ソロホームランで好守を見せた万波。
 終わってから、混雑を避けるのと、余韻を楽しむために、球場内を一周した。大きな壁画があり、ダルビッシュと大谷が描かれていた。そう言えば日ハムだったな。今や新庄一色になってしまっていた。外野席の一番前に行ってみた。とてもグラウンドが近かった。1塁側には、過去の監督が紹介されてたり、チャンピオンフラッグが掲げられていた。
 22時半、出発。給油したかったので、近くのオカモトを目指した。だいぶ時間をずらしたつもりが、まだ渋滞していた。
 オカモト北広島店。看板は172.8円/Lで、実際は157円/Lだった。
 23時、道の駅マオイの丘公園。国道に面してる割には静かだった。睡眠時間確保のためブログは明日に書くことにした。