びーの独り言

どこいくの?どっか。

2023/05/03(水)祝「青森」

 715、起床。道の駅なみおか。夜は防寒対策としてフル装備で寝たので暑いくらいだった。朝食後、昨日のブログを修正して、845、出発。
 東北道の浪岡ICから青森IC。1区間だけ。
 9時、三内丸山遺跡。2010年の江差で同宿の人から「青森は三内丸山遺跡が一番の見所って言われたから行ったけど、何にもなかったわ」と言われた。その時に、青森イコール三内丸山遺跡なんだと刷り込まれた。開館の9時には既に50人くらい行列していた。ここって遺跡だよな?
 915からボランティアガイドに参加した。ボランティアガイドさんは優しそうなおばさんだった。説明は丁寧で詳しくて素晴らしかった。
 三内丸山遺跡縄文時代中期の遺跡であり、大規模な集落だった。江戸時代から遺跡があることがわかっており、野球場建設の際に調査したところ大量の土器が出てきたために遺跡として保存することが決定した。吉野ヶ里と同じパターン。
 遺跡に案内されると、目の前にタンポポの咲く広い野原が現れた。よく晴れた天気に緑がよく映えた。その中に縄文時代の集落が点在していた。
 数ヵ所に盛土があった。これは住居の床を掘った時に出た残土を捨てた山で、ここからはたくさんの土器が発掘された。ここでは土器が埋まってる様子を観察することができた。
 高床式倉庫は、一般的に階段は見つかっていないとのこと。へー。
 北の谷。ゴミ捨て場。魚の骨は見つかるが、頭の骨は見つかっていないとのこと。そこに気づいたことが凄かった。また、植物の中に瓢箪など人間の手を加えないと育たない植物が混ざっていたことから、植物を育てる文化があったのではないかとのこと。そういう考えがあるのか?
 掘立柱建物跡。三内丸山の一番の特徴。2×3列の巨大な柱が建っていた。柱の間隔は4.2m、高さも1階4.2mの三層で、屋根があったかはわからないらしい。4.2mは他に住居跡から発掘されている板の幅35cmの倍数であり、縄文時代から決まった長さがあったのではないかと考えられているそう。
 1020、ガイド終了。このガイドさんの説明は最高だった。ほとんどの情報はカバーされており、おもてなしの心に溢れていた。遺跡を見る時にはガイドが欲しいね。
 建屋には出土品などの展示説明があった。ここの出土品は重要文化財指定されていた。目玉は大型板状土偶だった。なぜ板状なんだろうか?次の国宝かもしれない。
 施設を出る時に隣の青森県立美術館庵野秀明展をやってることを知った。これは行かなければ。12時、出発。
 青森県立美術館。50人くらい並んでるよ。凄い人気だ。ここでhyousubeからダイレクトツイート。三内丸山遺跡にいるとのこと。ウソでしょ?東北に来ているのは知ってたが、こんなことある?なんか面白かった。
 12時半、チケットを買って入場。庵野秀明のことは、島本和彦アオイホノオ」で知った。その後に「エヴァンゲリオン」シリーズでブレイクした。しかし、遡れば「トップをねらえ」「不思議の海のナディア」は見ていた。
 庵野秀明の高校や大学時代の映像作品が凄かった。アニメや特撮。そんな早くから作品を作ってることが驚きだった。
 「DAICONⅢ」でのアニメーションは岡田斗志夫「遺言」で読んだ時に探して見たことがあった。今見ても表現、構図、メカニック、センス等が凄いと思った。
 プロとしての一歩が映画版「超時空要塞マクロス」ということは知らなかった。あのクライマックスの戦闘シーンは庵野秀明だったのか!
 続いて「風の谷のナウシカ」の巨神兵王蟲を焼くシーンも庵野秀明。有名なシーンばかりじゃないか!
 ガイナックスオネアミスの翼」も庵野秀明。私が中3の時で見たかったけど、遂に今まで見ることはなかった。岡田斗志夫「遺言」を読んだ時に裏事情を知ることになった。
 「トップをねらえ」「不思議の海のナディア」を経て、独立して「カラー」を設立。そして「エヴァンゲリオン」シリーズ、「シン・ゴジラ」「シン・ウルトラマン」「シン・仮面ライダー」に至る。
 期待してたけど、高畠勲展ほどの深さはなかった。どこまでも娯楽作品を追及したという感じだった。大衆に受け入れられるポップさや、考えさせる余地を残す手法などには目を見張るものがあった。マニアックな変な人(?)が時代の寵児になったのが痛快だった。1435、出発。
 時間が思いっきり中途半端になってしまった。思いきって移動して南部縦貫鉄道廃線跡を探索することにした。南部縦貫鉄道レールバスで有名で、ずっと気になっていた。
 青森中央ICから青森道で終点青森東ICまで。続いてみちのく有料道路。終点の近くに南部縦貫鉄道が走っていた。
 路盤を探すために検索したら、特に遺構はなさそうに見えた。そして、終点七戸駅では南部縦貫鉄道で名物のレールバスを見学できるようだった。時間は16時まで。今の時間は15時半、急いで七戸駅へ向かった。
 1540、南部縦貫鉄道七戸駅。建物は南部縦貫鉄道の本社を兼ねていた。まだ使ってるのかと思わせるような激渋の古い灰色の2階建ての建物で、昔のフォントで「南部縦貫鉄道」「七戸駅」と書かれていた。急いで中に入ると、改札は昔のままで改札窓口におばちゃんがいた。「20分だけ見せてください」と言うと、しわがれ声で「機関庫の扉は開いてますから」と言われた。
 ホームに出ると、すべての施設が残っていた。島式ホーム、側線、機関庫。昭和のままで時が止まっているようだった。
 機関庫に行くとレールバスがあった。レールバスはバスに鉄道用の車輪を付けたものであった。コスト削減の苦肉の策だったが、逆に南部縦貫鉄道を語る上での特徴となった。
 機関庫の中にはおじさんが車両をいじっていた。保存会の人だと思った。機関庫にはレールバスが2両、ディーゼル車、機関車が2両、ラッセル車があった。
 駅舎に戻ると、おばちゃんが「もっと早く来たら走ってたのに」と言われた。マジか!「明日明後日も10時から動かすからまたおいで」、これは行かねば!私は入場料代わりに駅名標のマグネットを購入した。これが保存活動の資金となる。明日が楽しみだ。
 近くの十和田観光電鉄廃線跡を探索することにした。十和田観光電鉄には、2008年4月、2012年3月に乗車していた。十和田観光電鉄は2012年4月に廃止された。もう11年経つのか?
 1620、十和田観光電鉄十和田市駅。終点。駅舎が入っていたビルは跡形もなくなくなっていた。10年でこんなに変わってしまうのか。
 駅跡が残っている七百駅に向かった。道中路盤はわかりやすかったが、並行する道路の拡幅を受けて、道路に飲み込まれてる箇所があった。線路に沿って桜が埋まっていた。最初に乗った時は満開だったのを思い出した。
 1650、七百駅。駅舎、ホーム、レールなど、すべての設備が残っていた。ここに保存会があるようだったが、最近の活動は確認できなかった。構内にはロープが張られて立入禁止になっていた。
 かつて十和田観光電鉄の起点三沢駅の駅舎は激渋で、中には駅そば屋があった。私は訪問した2回とも食べた。今はどうなってるのか探してみると、リニューアルした三沢駅で営業してるようだった。1715、出発。
 17時半、三沢駅青い森鉄道の現役の駅だった。三沢駅前交流プラザみ~くる「とうてつ駅そば」。スペシャルそば大盛を注文。見た目には覚えがあったが、味はすっかり忘れていた。極めて普通。この感想は昔と同じ。ただかつての思い出がおかずだった。
 駅舎のあった場所を探したけど、新しくできた駅舎の場所だと思われた。記憶の場所とは違っていた。記憶なんて曖昧なもんだ。1815、出発。
 近くの温泉に行くことにした。三沢には在日米軍基地があった。道にはアメリカ人が普通に歩いていた。なんかこの町面白いぞ。基地の前に「MISAWA」と書いたモニュメントがあった。
 1825、ファミリーマート三沢基地前。ここにもアメリカ人がいた。モニュメントの写真を撮った。
 1840、三沢空港温泉。ここにもアメリカ人がいた。普通にその辺にいるなあ。ここは谷地頭温泉みたいな作りで湯温も熱かったが、お湯の色はなかった。ソファーに座り、ブログを打った。2050、出発。
 2110、道の駅おがわら湖。ここは静かなので、よく眠れるかな?