びーの独り言

どこいくの?どっか。

ボクは坊さん。

ボクは坊さん。

ボクは坊さん。

 Tさんが貸してくれた。今までも特に頼んだわけではないけど数冊貸してくれた。他の人のお薦めは自分の世界を広げるのにありがたい。仏教には感心があったが、自分からは調べたりしない程度だった。
 私より5歳下の若いお坊さんがお坊さんになるまでとお坊さんになってからの話をいろんな角度から描いている。面白かったのは仏教が私の今の人生観によく似ていたことだ。特に「空」の概念のくだりでは電流が走った。「空」の概念は、モノには実体はなくて、周りとの関係性の中でモノは決まる、ことらしい。私もかつてそういう感覚になって、そうだったのか、とわかったような気になったことがあった。
 素粒子の世界だと実体はそこに確実にあるとは言えなくなって、何%の確率でそこに存在しているとしか言えない。そこに実体はあるかもしれないが、ないかもしれない。そこにあると思うのはあると信じこんでるだけである。重要なのは実体があるとかないとかではなく、あると思っている自分の認識である。例えば誰かにプレゼントをもらったとする。プレゼントの実体とは別にプレゼントを見る度に誰かのことを思い出す。そのプレゼントがもらったのではなく自分で買ったとしたら、プレゼントに対する印象は変わるだろう。実体は同じプレゼントであっても入手の仕方などで印象ががらっと変わる。モノには魂が宿っていると言われたりする由縁であるが、別にモノに魂があるわけではなく自分の認識の問題である。また他の例えでは、死んでしまった人と生きてるけど二度と会わない人は、目の前にいないという状況は同じだけども、2つの状況の認識は異なってくる。片方は二度と会えないし、片方は会う可能性はゼロではない。見えないところが重要なわけだ。我々は事実の中で生きてるけれども、自分の認識の中で生きてると言った方が正しい。大村氏が書いてたように、事実を微分したところの人の間で決まってくる流れが大切だ。
 これを応用すると、具体的なモノを求めなくなる。そこに人がいなくても繋がりを感じたりできるし、旅行に行かなくても行ったような気分になったり、食べなくても腹一杯だったり、つまらなくても面白くできる。自分の認識なんて夢のようにあてにならないが、人はそのあやふやな認識の中で生きている。目の前で実際に起きてることが全てなのかもしれないが、事実をどう捉えたかという認識の方が大切である。
 この本は至るところで、仏教の言葉が出てくる。キリスト教ではよく有名なフレーズがあるが、仏教にはそういうのはないと思っていた。あってもお経になっていて理解できないと思っていた。意味がわからなくても念仏さえ唱えれば救われるというのが私の仏教感だった。キリスト教の個人崇拝は好きではないが、人が幸せになるためのシステムとしてはむしろよくできてる印象だった。この本を読むと仏教もキリスト教と同じであって幸せになる仕掛けは同じであると感じた。様々な含蓄のある言葉が色々な角度から述べられていた。仏教はもっと身近な存在であっていいと思うのだが、葬式でしかお世話にならない。どうしてそうなったのだろうか。日本では知識はよいものではないとされていた。もしかすると知らぬが仏なのかもしれない。
 この世は実体はあるでもなくないでもない。ただ一切は過ぎていくのみだ。でも、仏は自分の心に住んでいて、ただ楽しめばいいということだ。
 4回読んだ。この本はとても面白い。自分より若い著者がとても深く考えているのが参考になった。お坊さんの世界がもっと知りたくなった。