びーの独り言

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徒然草・方丈記

徒然草・方丈記―日本古典は面白い (ちくま文庫)

徒然草・方丈記―日本古典は面白い (ちくま文庫)

 東洋哲学から日本の古典に手を出すのは必然の流れだったのかもしれない。昔から古典のことは気になっていた。特に徒然草の冒頭の適当さや、方丈記の冒頭のスマートさは、気に入っていた。
 翻訳文と原文と注釈があるのだが、この3つを対比させながら読むのが大変だった。最初から読むのを止めようかと思ったくらい。そのうちに凄く面白くなってきた。3回読むのに、1ヶ月弱も時間がかかってしまった。4日前に読み終わったが、レビューが長文になりそうなのでなかなか書けなかった。
 思想的なとこには期待してなかったが、独特の世界観があって面白かった。仏教の影響なのだろうか。変わらないものは何もない。人の心も変わっていくのだ。これを無常という。あとはこだわりなんか捨てなさいと言っている。何かにこだわることが煩悩にすぎないのだと。老荘ぽい。
 徒然草からメモ。「老いが来てから初めて仏道修行しようと待っていてはいけない。古い墳墓は、多くは若年の人のものである。思いがけなく病をうけて、すぐにもこの世を去ろうとする時にこそ、はじめて過ぎてしまった時の暮らし方が誤っていたことは思い知られるのである。誤りというのは、ほかのことではない、急いでするべき事をゆっくりと待ちかまえ、ゆっくりするべき事を早くして過ごしてきてしまったことであり、それが後悔されるのである。その時に後悔したとしても、何の甲斐があるだろうか。」「一切の物事が無常で変移してやまないこの世界では、有ると見えるものも本質としては存在せず、始めにあった状態も終わりには違ったものになっている。志は遂げられず、欲望は次々わきおこって絶えることがない。人の心は一定であることはなく、物はみな幻のように実体がないのであり、どんな物事がわずかな間でも変わらずにあるだろうか。」「どんな事でも、盛りのときではなく始めと終りのときに味があるのだ。男女の情愛も、ひたすら逢って交わすことばかりを言うものだろうか。逢わずに終わってしまった辛さを思い、果たされなかった末までの契りを恨みに思い、長い夜を独りで明かし、遠い雲のかなたにいる人を思いやり、今住んでいる荒れた浅茅が宿で昔のはなやかな恋を偲んでこそ、恋の情趣をわかっているものと言えよう。」「筆をとれば自ずから文章が書かれ、楽器をとれば音を立てて奏でようと思う。盃を持てば酒が呑みたくなり、賽を持てば賭け事がしたくなる。心は必ず事物に触れて生じる。だから、かりにも善からぬ戯れ事をするものではない。」
 方丈記からメモ。「勢威のある者であれば貪欲の煩悩が深くなり、独身の者は人に軽んじられる。財産があれば盗まれる恐れが多く、貧しければその嘆きが痛切である。人を頼れば、我が身は他人の所有物である。人に目をかければ、心は情愛に召し使われる。世の中に従えば、我が身は窮屈である。従わなければ、気が狂っているように扱われる。どういう場所に住んで、どういう事をしたからといって、しばらくでもこの身を落ち着かせ、わずかな時でも心を休めることができようか。」「総じて、世を遁れ、身を捨ててから、恨みもなく、恐れもない。命は天運にまかせて、短いことを惜しまず、長いことを厭わない。身は浮き雲になぞらえて、頼りにもしないし、無事であろうとも思わない。この一生の楽しみは、うたたねの枕の上に見る夢に尽き、生涯果てるまでの望みは、季節ごとの美景にのみ残っている。」
 いずれも心にジーンとくる言葉である。人間というのはどれくらいテクノロジーが発達しようとも考えることは同じなのである。むしろ、余計な道具がない昔こそ、自然のままを愛し、深く自分を見つめることができたのかもしれない。無駄のそぎ落とされた文章に美しさを覚える。
 東洋哲学も仏教も「発展」という概念がないのではないかと思う。どんどん失敗しなさい、でないと成長しないから、なんてことは書かれていない。いつも現状維持で満足し、必要以上のものは求めない。その代わり、組織で助け合う精神が息づいている。ピンチのときは誰かが助けてくれるのだ。日本で何か独特のテクノロジーが見つかっただろうか。偉大な思想家がいただろうか。そこにあったのは個ではなく公だった。作者の吉田兼好鴨長明も偏屈なインテリだっただけかもしれない。ほとんどの人は名を残さず去っていくのだ。
 古典は面白い。変な小説を読むよりずっと良い。今に残っている理由がある。