びーの独り言

どこいくの?どっか。

2024/01/27(土)「船橋」

 どこかに行くつもりだったが、特に行きたいところはなかった。そう言えば、東京方面は探索してなかったなあ。近くの習志野市で調べたら、なぜか船橋市が引っ掛かった。11時、部屋を出発。
 最初は前々から気になっていた稲毛海岸の花の美術館に行こうとしたけど、長期の臨時休業だったorz。仕方がないので気を取り直して船橋に向かうことにした。東京湾に面した海岸沿いの道はかつてのジョギングコースだった。今日もたくさんのランナーが走っていた。空は雲一つない快晴で、前方には一際高い幕張旧プリンスホテルが聳え立っていた。美浜大橋からは青い東京湾が見渡せて、海面にはたくさんのカヌーが浮かんでいた。海の向こうには三角形の建物があった。横浜の何かだった。
 船橋市京葉線で毎日通過するけど、京葉線は埋め立て地を通っているので、景色のほとんどは殺風景な工業地帯だった。千葉の有名な町は総武線沿いに発展しており、総武線には数えるくらいしか行ったことがなかった。船橋の道は狭くてゴミゴミしていたイメージだったが、まさしくそのイメージ通りで、ナビで指示されるままに運転するだけだから、まったくどこを走ってるのかわからなかった。
 薬園台というところに入ると、急に目的地が現れた。12時、船橋市立郷土資料館。大きな公園の入り口にあり、見た目は公民館みたいな佇まいだった。船橋市の歴史と縄文時代の出土物が知りたかったのだが、一番目を惹いたのは、D51 125が静体保存されていたことだった。ひっきりなしに子供連れの家族が訪れていて、皆が笑顔だった。ここは都会の中のオアシス的な存在なのかもしれない。
 SLの隣には明治天皇が訪れた記念碑が建てられていた。ここは明治天皇が軍隊の演習を見た時に「習志野」の名前を与えたところとのこと。船橋市なのにと思わずにはいられなかったが、昔の地名が現代になって2箇所に分かれてしまうのはたまにあることだった。
 展示は動画を駆使して気合いが入っていた。千葉市のやる気のなさとは大違いだった。船橋市は人口63万人。船橋の名前の由来は船を並べて橋のように渡れるようにしたからと言われていて、一説にはヤマトタケルノミコトまで遡る。まあこれは後づけだろう。船橋は街道の分岐点にあたるのでその宿場町として発展した。東京湾に面してるだけあり、縄文時代貝塚だらけだった。これは市原市千葉市と同じだった。ふなっしーで有名になった梨はほとんど出てこなかった。
 今回、私が驚いたのは船橋市の立地の複雑さだった。新京成習志野駅と北習志野駅は思いっきり船橋市だった。では、習志野市はどこかという疑問がわいた。昔から津田沼習志野市という認識はあった。今回、この津田沼船橋との市境に股がる地域ということを知った。これとは反対側、京成の船橋駅の東京寄りにある西船駅はかつては葛飾駅を名乗っていた。これは千葉県東葛飾郡に属するためだった。しかし、葛飾は東京のイメージだったため西船に改名した。1410、出発。
 15時、船橋市飛ノ台史跡公園博物館。ここは飛ノ台貝塚に隣接していた。入場料は110円。企画展「変化する縄文の暮らし船橋縄文時代後期」。たくさんの縄文土器があった。私は説明をそっちのけで土器の形式を覚えるためにじっくりと観察した。船橋市内の貝塚の説明はほぼさっきの郷土資料館と被っていた。1615、出発。
 1625、県立行田公園。ここには船橋無線塔記念碑があった。ここは飛ノ台史跡公園博物館でもらったパンフレットで紹介されていた。電波塔は長崎の針尾が有名だが、船橋にもあったことを知らなかった。驚いたのは地図を見た時に大きな真円を描く道があったことで、直径は1kmにも及んだ。真珠湾攻撃の際の「ニイタカヤマノボレ1208」はここから発信された。1645、帰ることにした。
 すぐ近くにサイゼリヤがあったので夕食。今日はプールは諦めた。昨日三勤一休と書いておきながら早速ルールを破ったorz。こんなんなら書かなきゃよかった?船橋ICから京葉道路で武石IC下車。
 買いたいものがたくさんあったので、買い物に行くことにした。新港のロイヤルホームセンターで、スリッパ、お風呂の燻煙剤、キレイキレイの詰め替えパック、単3電池を買った。マスクが欲しかったけど、探していたものがなかった。蘇我ユニクロに行って、上着の襟が擦りきれてたので、新しいものを買った。千葉みなとのヤックスドラッグでマスクを買った。セブンイレブンでジャムを買った。買いたいものは全部片付いた。
 船橋はなかなか面白かった。レベルをローカルまで下げると近くにもまだまだフロンティアが広がってそうだ。将来、千葉を離れることになっても、千葉であそこに行っとけばよかったと思わないようにしたい。