びーの独り言

どこいくの?どっか。

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

 この本のことは「ゆる言語学ラジオ」で知った。そこで紹介された内容が衝撃的だったので、買って読んでみることにした。昨年の7月、千葉に来た時から読んでいて、1年かけて3回読んだ。
 著者はキリスト教の伝道師で、アマゾンの奥地に住む原住民ピダハンにキリスト教を広めることが目的だった。著者の所属するキリスト教の組織は、聖書を現地語に翻訳して配布することで、キリスト教を広める手法を取っていた。従って、著者はピダハンの村に住んでピダハン語を習得するところからスタートした。
 しかし、ピダハンは世界中のどの部族とも異なる言語体系を持っていた。まず数や色などの抽象的概念がなかった。関係代名詞がなかった。名詞や形容詞は2つ以上並列できなかった。完了形がなかった。これらは従来の言語学の理論には反していた。言語学では、言語と文化を分けて考えていたが、著者は、文化が言語へ影響を与えており、言語と文化を分けることはできないと主張した。
 ピダハンは自分が体験したことしか信じなかった。ピダハンに必要なのは食べ物を確保することだけであった。必要な時に狩りをした。必要以上に狩らなかったし、食べ物を保存することはなかった。何日も狩りをしないこともあった。空腹は身体を鍛えることとされた。数を教えても理解できなかった。数を数えるよりも、魚や木の実の大きさの方が重要だった。外界からの知識はたとえそれが便利であろうと受け入れなかった。受け入れたとしてもそれには長い長い時間が必要であった。ピダハンは皆親切であり、人懐っこかった。ふざけたり遊んだり踊ったりしていた。しかし、ルールを破ったものは村八分にされた。ピダハンはいつも満面の笑みをかかさず、幸せそうに見えた。
 著者はキリスト教を布教しようとしたが、「お前はイエスに会ったことがあるのか?会ってもない人物の言葉を信じるのか?お前がイエスを信じるのは勝手だが、俺に指図をするな」と言われるだけだった。ピダハンには見たこともない神は信じることはできなかったし、そもそも必要ではなかった。神がいなくても十分に満足のいく日々を過ごせていた。敬虔なる信者であった著者は、言語学文化人類学を専攻する科学者でもあった。布教しに来たはずが、徐々にピダハンの方が正しいのではないかと疑問を持つようになった。そして、家族や友人にキリスト教を信じていないことを告げた時、すべてを失うことになった。
 この話は衝撃的だった。「今だけを楽しく生きる」という概念を理解していたつもりだったが、本当の理解には達していなかった。私が不幸だと思う原因は、実は未来を気にして生きてるからではないだろうか?先の見えない不安、病気や死、失業して野垂れ死ぬのではないかとか、車に乗ってて他の車が突っ込んでくるのではないかとか、はたまた核ミサイルが飛んでくるのではないかとか、世間のニュースから会社での評価、人の噂話にまであらゆる不確かなものに翻弄される。またやたらと過去を懐かしんだり、後悔したりするのも、今の瞬間には不要だ。不必要に足りてる以上のものを欲しがったり、他人より少しでも得をしようとしたり、そういう余計な欲望が、結局のところ回り回って、争いになったり、資源が枯渇したりして、自分の首を絞めてるだけではないだろうか?
 今さらピダハン的な生き方はできないのだが、気持ちの持ちようのところではとても大きな影響があった。ピダハンは死ぬことを恐れない。それは誰にでも平等に訪れるものだ。著者が義母が自殺したことを告白した時、ピダハンたちは爆笑した。こんなに楽しい人生を自分から放棄するなんて。人生とは本来楽しむものなのだと。この本は人生においてとても大事なことを語っている。宗教よりも前のもっと大事なこと。人間が太古の時代に自然の中で暮らしていた記憶。足るを知る。説得力があり、ストンと腑に落ちるものがあった。素晴らしい一冊だった。