びーの独り言

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ふしぎなキリスト教

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

 夏休みの前には読んでいた。「ブックファースト」のカバーがついているということは三ノ宮で買ったんだと思う。新刊のコーナーにあった。橋爪先生と大澤先生の対談集。対談集はあまり好きじゃないし、キリスト教という題もひかれなかった。けれど、橋爪先生だからというので読んだ。大学友人Sも読んでたりして、4回読んだ。
 対談の相手の大澤先生は哲学の教授だったが、今は辞めて評論家か何かをしてる。大澤先生が質問をして、橋爪先生が答えるという構成になっている。対談集というものの対談にしては内容がやけに説明口調で変である。まるで最初から答えがわかっているのに質問しているような感じもする。2人して講義をしているような印象である。大澤先生は大学教授だっただけあって知識が豊富だった。橋爪先生が特別凄いのかなと思っていたけど、大澤先生も凄いなあって思った。大学教授になる人は知識じゃ負けてないよなあ。でも、大澤先生のパートは注意して読まないとわかりづらいとこが多かった。
 今まで私が読んできた橋爪先生の本を補完するような内容だった。キリスト教の歴史の流れを知ってからじゃないと、おそらくいきなり読んだらかなりわかりづらいかもしれない。1回読んだくらいじゃほとんど理解できなかった。読み込めばなんとかなるというレベル。とにかく大澤先生の質問がえぐくて本質的だった。「神が全知全能なのに、なぜ神に作られた人間は不完全なのか」「イエスが神の子なら殺されることも復活することも知っていたのではないか」「神が一人だけなのはなぜか」とか。それに対して橋爪節が炸裂する。
 なぜ科学が発達したのか、という理屈が面白かった。キリスト教ではこの世界の外に神がいるとする。神はこの世界を作ったが、もうここには神はいない。人間が神を理解しようとしても人間の理性の範囲内でしか理解できない。神が作ったこの世界の法則を知ることは神を理解することになる。要するに科学をすることは神を理解する行為になるというのだ。アインシュタイン量子力学を評して「神はサイコロ遊びはしない」と批判した。これなんかは神を中心に据えた考え方と言えるだろう。
 橋爪先生は「宗教とは、行動において、それ以上の根拠をもたない前提をおくことである」としている。この定義でいけば、何か行動していれば、それは何かに従っていることになるのである。それが神に従っているのか、社長に従っているのか、親に従っているのかはわからない。日本人の場合は、天皇陛下を崇めているという説もあったりする。キリスト教の考えは矛盾もたくさん含んでいるけど、どこかその考えには妙に救われる部分もあったりして−神は乗り越えられるから試練を与えるとか−なかなか面白いと思う。
 聖書の解釈ってなんだかこじつけみたいなものもあるんだな、と思う。でも、それは聖書だからというのではなく、言葉の持つ性質なんだろうな、とも思う。聖書に限らず、憲法だって解釈の問題があるわけで、言葉が言葉である限り、さまざまな解釈は当然生まれてきてしかるべきなのだろう。論理をひっくりかえしたりするのは面白かった。解釈の多彩さは仕事の言い訳にも使えるテクニックだ。
 とことん読みごたえのある本だ。内容はマニアックなので素人にはお勧めはできない。「世界がわかる宗教社会学入門」を読んでから読むべし。