びーの独り言

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知性の限界

知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)

知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)

 「理性の限界」に続く2冊目。「理性の限界」が大ヒットしたので、続編として出版された。これも4回読んだ。
 第一章は言語の限界について触れられている。軸となっているのは、前期と後期のウィトゲンシュタインだ。ウィトゲンシュタインについては橋爪先生の「はじめての言語ゲーム」で馴染みがあった。このくだりは非常にドラマチックで私のお気に入りである。
 前期ウィトゲンシュタインとは「論理哲学論考」の内容である。言葉とは現実の事象を写すものであり、言葉と現実の事象は一対一に対応しなければいけない。哲学的な問題は言葉の定義があやふやだから生じるのであり、哲学的な問題は本来語ることができない。哲学という学問をばっさり切り捨てているところが凄い。ここからすべてを論理的に説明しようとする論理実証主義が生まれた。しかし、言葉がどこまで意味を有しているかを判定する有意味性判定基準がが曖昧であり、また有意味性判定基準が厳しくなりすぎたために、ほとんどのことが語れなくなってしまった。また、哲学的な問題は本来語ることができない、という文脈自体が、哲学的であり意味がないという指摘があり、ウィトゲンシュタイン本人もそれを認めている。
 ウィトゲンシュタインが凄いのは一度引退して復帰した後の後期である。ここでは前期の考え方を180度転換している。言葉には絶対的な意味はなく、言葉はローカルルールに従って使用される。ローカルルールとは集団が共有している暗黙の了解である。拡大解釈すれば、場を支配する「空気」かもしれない。この説明はコミュニケーションに対する最終回答に見える。絶対の真理はなく、すべて相対的な約束事なのだと。
 第二章では予測の限界について扱われている。未来を予測するとき、過去の延長で考える。太陽は昨日上ったように今日も上る。でも、未来永劫そうだろうかと言われれば、このような帰納法による証明は、大雑把には正しいかもしれないが、厳密には成り立たない。
 地震予知のような複雑系は予知しようがない。パラメーターがちょっとでも動くと結果が大きく変わってしまう。また株価が大暴落する原因もわからない。政府の発表する経済予測はほとんど当たらない。予測とは難しいというより原理的に不可能に思える。過去の経験から計算できる部分がリスクであり、誰もわからない部分が不確実性。この不確実性をどのように見切るかが試されている。うちの研究開発に対する判断なんて、リスクばかり計算して不確実性に対するアプローチがないよな。
 第三章は思考の限界について扱われている。人間原理とか神が存在する証明が出てくるが、読み進めているうちにどうでもよくなった。そんなことは反証不能であり、語りえないことである。それにここは八百万の神が住む日本だ。
 この本も面白く読ませてもらったが、いざレビューする段階になると、ウィトゲンシュタイン以外はまとまりがないように思えた。さすがに続編ではクオリティが落ちるのかもしれない。でも、1冊目のクオリティが高すぎるだけで、この本も平均以上に楽しく読める。きっと新しい気づきがあるはずだ。