びーの独り言

どこいくの?どっか。

2025/01/04(土)「島原」

 小浜温泉駐車場。二度寝して、起床は7時。寝過ぎた。でも、なんか疲れてるから寝れるだけ寝た方がいい。寝床から出るのも寒いし。朝食後、昨日のブログを修正、髭剃り。
 750、出発。昨日チラッと巡った雲仙鉄道廃線跡を本格的に探索した。
 755、肥前小浜駅跡。終点。小浜温泉からは2km離れていた。雲仙鉄道はバスとの争いに敗れ、わずか11年で廃止となった。駅跡には消防倉庫が立っていた。
 805、富津駅跡。富津港の高台にあった。この鉄道がなければ、富津は陸の孤島だったろう。廃線跡は富津から他の町に出るためには欠かせないものとなっており、鉄道を敷いたことは決して無駄ではなかった。
 ここからは石造りのトンネルが2つ連続した。一車線なのでトンネルの前には、対向車の接近を知らせる電光掲示板があった。退避スペースもたくさんあったが、駐車禁止と書かれていたので、車を停めて写真を撮ろうとするのが後ろめたかった。トンネルのあとは強烈な切通が出てきた。これは同業者の間では緑のトンネルと呼ばれていた。こんだけ高い切通を作るなら、いっそトンネルにしてもよかったのではないか?これらは全部走行動画に収めた。
 8時半、木津の浜駅跡。富津と同じく漁港を見下ろす高台にあった。そして、木津集落唯一の外に接続している道でもあった。ここにはホーム跡らしきものがあった。ちょっと低いのが気になった。路盤を道路にする時にバラストごと埋めたのかもしれない。
 山越え区間は終わった。とにかく強烈な山越えだった。よくこんな険しいところを通そうと思ったものだ。ここは路盤の線形がよく残っており、とてもワクワクした。杉津の北陸本線旧線や田口鉄道と並ぶ素晴らしい廃線跡だった。
 835、上千々石駅跡。廃線跡は平地に下りてきた。ここにもホーム跡らしきものがあった。
 これ以降は昨日探索していない区間となった。廃線跡はいきなり国道にぶつかり消滅した。Googleマップにも駅跡は表示されなかった。これは厄介なパターン。ネットで調べて、誰かの個人ブログを参考にした。
 845、千々石駅跡。国道のバス停の横にあった。石碑には当時の写真が載せられていた。こういうのは想像力をかき立てられるのでとてもありがたい。
 ここから国道は山越えとなったが、廃線跡は海岸沿いを進んだ。荒れてることを覚悟したが、まともな道だった。なぜ国道はこちらを選ばなかったのだろうか?
 905、濱駅跡。海に凄く近かった。今はコンクリートの防波堤があるが、ネットを見ると、昔は砂浜のそばだった。
 ここから廃線跡は海に別れを告げて、また国道に吸収された。
 915、水晶観音駅跡。水晶観音のバス停とは少し場所がズレていた。
 ここからの廃線跡はいよいよわからなくなるなあと思ったら、わかりやすい小道になっていた。しばらく続いた後、再び大きな道路に飲み込まれた。
 925、愛津駅跡。道路の途中にあった。
 935、愛野村駅跡。終点。島原鉄道の現役の駅であり、今の名前は愛野駅である。「愛の駅」の看板が掲げられ、三角屋根のロマンチックな駅舎となっていた。
 これで雲仙鉄道廃線跡探索は終わったが、もう一箇所行かなければならないところがあった。起点の小浜温泉まで戻って資料館に行った。
 1020、小浜歴史資料館(本多湯太夫邸)。ここは雲仙鉄道小浜温泉まで敷いた本多湯太夫の屋敷だった。ここには雲仙鉄道の資料があった。小浜温泉は最初は崖にあるような温泉で長崎の近くの茂木港から船で訪れるのが定番だった。小浜温泉を管理していた本多湯太夫は頑張って、海を埋め立てて、道を整備して、バスを走らせ、鉄道を敷いた。鉄道は温泉軽便鉄道愛野村駅から千々石駅まで敷いていたので、本多湯太夫はそれに接続する形で、小浜温泉まで延伸させた。これが小浜地方鉄道(雲仙鉄道)だった。上千々石から肥前小浜までは山を切り開く難工事となった。正直、あの激烈な山を切り開くのであれば、あと2km頑張って小浜温泉まで到達して欲しかった。温泉軽便鉄道も小浜地方鉄道も赤字続きだったため、温泉軽便鉄道は小浜地方鉄道に合併されて雲仙鉄道となったが、財政難が解消されることはなく、島原鉄道に経営が移ったが、結局早々と廃線となった。資料館には当時の時刻表があった。
 おそらくだが、本多湯太夫の個人の想いが鉄道を敷くという手段を取らせたのだろうた思う。時代は軽便鉄道ブームで、資本家によりあらゆるところに鉄道を敷く計画が持ち上がっていた。それは町の発展を願いつつ、ひと儲けしてやろうという気持ちも強かった。今回がどちらの理由かは定かではない。もし、時代が違えば、雲仙岳橘湾が見渡せる美しい景色と小浜温泉は、長崎から雲仙のゴールデンルートの一つとして充分に売りになったかもしれない。ただ、たった11年で廃止されたということは計画があまりにも無謀だったと言ってもいいのではないか?当時の人たちの11年で廃止になった無念さを思うと、なんとも切ない気持ちになるのである。
 1110、くまや弁当。2年ぶり2回目のチャレンジ。前回は休みだった。今回も休みだったorz。
 2年前に島原半島は一周してたので、今回ショートカットするつもりだったが、なんかやっぱり欲が出てきて、今回長崎の海岸線を回ってるのだから、ここも回ってしまえばいいだろうということにした。
 12時、島原鉄道加津佐駅跡。終点。かつて加津佐町の主要駅だった。2年前にも訪れていた。駅舎はなく、廃線跡はサイクリングロードになっていた。前回この駅しか見なくて他の駅はすっ飛ばしていた。今回もせっかく来たのだから一応見とくかという感じだったが、これがよくなかったw。ここからは廃線跡の全駅調査となった。島原鉄道島原港駅から加津佐駅の35.3kmは2008年に廃止されて、全部で20駅もあった。
 1215、白浜海水浴場前駅跡。ホームが残っていた。こんな小駅でも意外と残ってるんだなと思った。これが全駅調査に拍車をかけた。
 12時半、口之津駅跡。かつて口之津町の主要駅だった。敷地には島鉄バスがたくさん停まっていた。駅舎もホームもなくなっていた。国道を挟んだ海側には島鉄のフェリー乗り場だった。天草まではほんの僅かの距離だった。ここは島鉄の一大拠点といった様相だった。
 1245、食事処すだち。めっさ混んでいた。すだちランチ。チャーハン、酢豚、唐揚げ、春巻き、シューマイ、サラダなど。地元の人気店に入るというのもいい思い出となる。
 1335、東大屋駅跡。こんなとこに駅があるのかというような狭い住宅地の中にあった。島原鉄道は完全に地域に密着していた。そりゃ明治からあるからなあ。ホームの上には屋根の付いた吹きっさらしの待合室があった。路盤はサイクリングロードではなく、草が蔓延っていた。サイクリングロードが途中で途切れるのもよくある話である。
 ここからは廃線跡は山越えとなった。廃線跡は土がむき出しになっていて工事されているところだった。国道は山を海側に迂回していた。廃線跡とわかれたと思ったら、いつの間にか廃線跡が寄り添ってきてとても萌える景色となった。
 1345、有馬吉川駅跡。ここも住宅地の中にあった。島式ホームであり交換可能。ホームの上には吹きっさらしの待合室。駅前には自転車置き場と開通を記念した石碑があった。石碑はただ虚しいだけだった。
 14時、原城駅跡。かつて南有馬町の中心駅だったが、島原の乱で有名な原城の名前を付けたと考えられる。原城の駐車場までは300mくらいなので結構近いかも?駅舎は取り壊されていて、白線を手書きした駐車場になっていた。ホームと待合室が残っていた。
 1410、浦田観音駅跡。老人ホームの横にあったはずだが、何も残ってなかった。
 1420、常光寺前駅跡。ホームが残っていた。なぜかホームが真っ白で新しくなっていた。
 14時半、北有馬駅跡。かつて北有馬町の中心駅だった。駅舎が残っていた。やっと駅舎が出てきた。
 1440、龍石駅跡。海に面していた。ホームの上に待合室があった。もしかすると、この駅も人気が出たのではと思わせるほど、駅に近かった。
 1450、西有家駅跡。かつて西有家町の中心駅だった。北有馬駅と同じような駅舎が残っていた。そうめんの町と書かれていた。知らなかった。
 15時、有家駅跡。かつて有家町の中心駅だった。ここには三角屋根の駅舎が残っていて、北有馬駅西有家駅の駅舎とは形が違っていた。駅舎はバスの待合室として再利用されていた。ちょうどバスがやって来て、運転手と別のバスの運転手がずっと話し込んでいたので、駅舎に近づくのが憚られた。
 1510、蒲河駅跡。激狭の住宅街の中にあった。小さな駅で気持ち程度の待合スペースがあった。ホームはよくわからなかった。
 1520、堂崎駅跡。駅舎はなくなっていた。ホームはあった。見たことのないV字型の自転車置き場があった。
 15時半、布津駅跡。かつて布津町の代表駅だった。北有馬駅西有家駅と同じタイプの駅舎が残っていた。もしかすると、町の代表駅には駅舎があるのかもしれない。
 1540、布津新田駅跡。ホームっぽい真っ白いコンクリートがあった。
 1550、深江駅跡。かつて深江町の中心駅だった。ここにもいつものタイプの駅舎があった。ここからは1991年に雲仙岳が噴火して大きな被害が出ているものと考えながら進んだ。
 16時、瀬野深江駅跡。ホームと待合室が残っていた。
 大きくて立派な鉄橋で川を渡った。これには驚いた。そこからはしばらく高架になった。なぜこんなとこに高架がと思ってたら、後で知ったところによると雲仙岳の噴火対策だった。
 1615、安徳駅跡。高架駅だった。もちろん立ち入りはできなかった。
 1620、秩父が浦駅跡。路盤は地上に降りていた。ホームと待合室があった。
 16時半、島原港駅。終点。島原鉄道の現役の駅。前は島原外港駅という名前だった。ここで廃線跡探索は終了した。廃線区間のレール、踏切、駅名標などは残ってなかったが、駅舎とホームと待合室はほとんど残っていた。廃線跡は半分以上サイクリングロードになっていた。残りの区間も工事する予定らしく、あちこちで工事していた。廃止から16年経っていて、未だにやってるのかという感じだった。部分開通ばかりのためか歩いてる人は皆無だった。むしろ、車道として開放した方が喜ばれるのではないかと思われた。それとも地元の雇用対策なのかもしれない。こんだけ徹底的に回って思ったのは、意外と住宅があるということだった。最近まで存続してたから、人は住んでるだろう。これから老人が増えるというのに、交通弱者と言われる老人は鉄道を利用していない。だとするならば、根本的に自家用車やバスに負けているということになる。廃線区間はほぼ南島原市だった。南島原市は人口が38000人。これでダメなら、地方にはもっと沿線人口の少なそうな鉄道がある。そう考えると、あまり鉄道の未来は明るくないのかもしれない。
 1655、島原鉄道大三東駅。海に近い駅として有名だった。2年前にはスルーしていたが、こないだはこクロさんがツイッターに上げてたのでついw。一般人ぽい何人かが写真を撮っていた。知名度があるんだな。
 1740、諫早湾干拓堤防道路(雲仙多良シーライン)展望所。この道路は地図で見ると、諫早湾の中を真っすぐに突っ切っている。どんな道かと思ったら、大きな堤防の横に8kmの真っ直ぐな道路があった。説明の看板では防災のためと言うが、私には自然破壊のようにしか見えなかった。内海はとても広い面積だった。これは淡水化されてるとのこと。将来的には全部干拓するのかな?
 温泉を探した。明日は多良の海沿いを走りたいので諫早に戻ることにした。
 1820、のんのこ温水センター県央県南広域環境組合余熱利用施設。着いてみれば、温泉プール併設であった。泳ぐの止めたからなんか後ろめたかった。510円。お湯にはラジウムが入ってるとのこと。ラジウムって放射線大丈夫かといつも思う(調べろよ)。上がったあとはブログを書いた。21時の閉館まで粘った。
 2120、道の駅長崎街道鈴田峠。主要道路に面していて、近くに電車が走っていた。
 今日は一日中廃線跡を探索した。まさか島原鉄道をやるとは思ってもなかった。正直なところ、興味の薄い施設に行くよりは、興味のあることをやった方がインパクトがある。でも、似たような駅ばっかりだと、ブログを書くのが地獄だったけどw。