びーの独り言

どこいくの?どっか。

2022/12/30(金)休「中津」

 起床は6時半。夜中に一度目が覚めたが、後はぐっすり寝てた。相当疲れていたのかもしれない。気がつけば、駐車場にはたくさんの車が停まっていた。人気パーキングだけある。昨日見えなかった関門橋ははっきりと見えた。朝食はカールうす味。ブログを修正した。昨日の走行距離は800kmを越えていた。740、出発。
 今回、九州を選んだのは、昔から夏が北海道なので、冬は九州になった。九州を本格的に車で走ったのは上野との98年冬以来かと。後は日田と指宿でレンタカーを借りた思い出がある。地図を見る度に、ずっと東海岸沿いが気になっていた。今回はそちらを攻めたい。
 東九州道へ。途中から対面通行。京奈和道を思い出した。中津ICで下車。そのまま中津日田道路は無料。耶馬溪の文字が出て来た。忘れてた!犬丸IC下車。
 840、ファミマで作戦練り直し。給油。
 中津日田道路を戻って、終点の田口IC下車。心細い道だけど、前に車がいるからなあと思ったら、一車線の山道へ。2台まとめてGoogle mapの被害者か?
 910、青の洞門。江戸時代に禅海上人が彫った素彫りのトンネル。山国川の崖を通るには鎖を掴んで渡るしかなかったが、村人が転落して亡くなることに心を痛めた禅海上人はノミ1本で30年以上かけて144mのトンネルを掘った。今の青の洞門はその一部が残ってるだけで、ほとんどは拡幅されて車道になっていた。しかし、禅海上人の利他的な献身性と鋼のように強い意志はずっと語り継がれるだろう。
 945、耶馬溪橋(オランダ橋)。石積みのアーチ橋。大正時代に作られたらしい。10時、羅漢寺橋。これも同じデザイン。後で上流にも同じデザインの橋があった。この奇妙な一致は気になるが?
 羅漢寺橋のところに羅漢寺駅の再現駅名標があった。これは大分交通耶馬溪戦の廃線跡だった。「歩鉄の達人」を見ると、トンネルや鉄橋満載のヤバイ廃線跡だった。そういや昔どこかでレポートを見たことあるような?今回、別にこれを狙ったわけではなかったが、ここで行かなかったら後悔するだろう。ということで終点まで行くことにした。終点までまだ20kmくらいあるので驚いた。
 1025、早速山国川に架かるヤバそうな鉄道橋が現れた。石積みの橋脚!大興奮!でも、橋を渡った後の路盤がよくわからなかった。本物かな?
 1040、久福寺呼猿窟。橋を渡ったところの崖の少し登ったところに、崖に埋め込まれたようにしてお堂が建っていた。印象的な景色だったので、思わず行ってみた。お堂の引戸は南京錠で施錠されていて、中を覗くと平安仏があった。ここは後述する羅漢寺の末寺だった。
 山国川沿いに山奥へ入っていった。廃線跡は道路の対岸にあり、サイクリングロードになっていた。白い柵がずっと続いていたので、車からでもたどりやすかった。路盤はとんでもない崖の中腹に張りついていた。とんでもない労力をかけて開削した鉄道は1975年に廃止になった。自転車で走ってみたいと強く思った。
 11時、山国川を渡る鉄道橋。緩いカーブを描きながら斜めに渡っていた。橋脚は石積み。今度は絶対に本物。全体が工事されていて、シートが被さったりしてた。わざわざ直すとは街の本気が伝わってきた。
 その後も廃線跡は人家や田んぼを避けるように山際を走っていた。鉄道って往々にしてそういうとこに敷かれる傾向がある。鉄道用地を安価に捻出するためだろうか?人家のない山奥に続く路盤、この先には一体何があるのだろうか?
 11時半、終点の守実温泉駅跡。商工会議所の建物の前に再現駅名標があった。聞いたことない温泉だが、鉄道を敷くくらい有名なのだろうか?
 青の洞門に戻る途中で、本物か疑いのある鉄道橋付近を眺めていたところ、サイクリングロードの白い柵は別にあったので、偽物だということがわかった。知らんけど。
 12時、羅漢寺。なんか名前を聞いたことがあった。入り口から立て看板。境内は撮影禁止とのこと。ここにはリフトがあったが、それは寺とは関係ないとのこと。寺と関係ないのにリフトなんて作るか?なんだかイヤな感じがした。
 石段や山門はとても雰囲気がよかった。山門の中には石仏の金光力士像。石仏は珍しい。この辺りは臼杵大仏にせよ石仏文化なのかもしれない。これは期待。
 石段は激烈だった。一段が高い!これは厳しかった。普段走っているとは言え、階段はそれ以上に息がきれたし、足の付け根の筋肉を酷使した。登りきったところ、左の方に板で平場が作られていて、お坊さんが作業してたので行ってみた。一人のお坊さんが仏前に花を活けていた。お堂の中にはたくさんの石の地蔵様がいた。すると、女性の大声が響いた。「撮影禁止です!ここまでで撮った写真を全部削除して下さい!」。このお坊さん、女性だったのか。そりゃ撮影する人が悪いわ、と思ったら、お坊さんは再び同じことを叫んだ。しつこい!お坊さんを見ると、作業しながら下の方にいる参拝客を鋭く監視していた。
 崖の窪みの中には五百羅漢像があった。すべて石で出来ていた。これは大迫力だった。三十三間堂ほどではないが、その次くらいの迫力だった。パワースポットという言葉がぴったりだった。羅漢は釈迦が入滅する時に集まった人々。羅漢の一体一体は表情や持ち物が違ってたりしてとても個性的だった。南北朝時代に2人のお坊さんが一年で彫ったとのことだったが、さすがに伝説だろう。
 本堂の横から300円の浄財を払って阿弥陀堂へ。阿弥陀堂は本堂の上にあり、眺めがきれいだった。阿弥陀様は金ぴかでなんだかな?鐘があったので衝いてみた。これで300円?お金取るとこ間違ってない?
 最後にもう一度五百羅漢を見ようと横から入ったら、怖いお坊さんが「正面から入って下さい!」と言った。そのくせその人はもう一人の寺の人と雑談していた。正直態度悪いと思った。この人は参拝者の心の中に平安どころか嵐を作り出している。そもそもリフトと揉めてるのもこの人じゃないだろうか?五百羅漢は素晴らしかったけど、信仰を盾にして周りにイヤな思いをさせるお坊さんがいる残念な寺だった。お客さんが気に入らないなら非公開にすることをお勧めする。13時半、出発。
 中津へ向かった。中津名物のからあげを狙った。1350、「元祖中津からあげもり山万田本店」。昔ながらの小さなお店。からあげしかなかった。ミックス弁当を注文。むね肉とモモ肉が二個ずつ。大盛にして1個追加w。
 弁当は安くてボリューム満点だった。大盛にしたのを後悔した。からあげはとても大きくて一口ではとても無理だった。また揚げたてホヤホヤだった。熱いからあげはうまかった。そんなに味は濃くなくて、主張は少なかった。ご飯を夢中でかきこんだ。とにかくおいしくて中津に来てよかったと思ったけど、超絶腹一杯になった。この先のダイエットが心配になった。14時半、出発。
 1435、中津城。日本三大水城。黒田官兵衛が作った。中津城は奥平家歴史資料館になっていた。奥平家は武田家の家臣で途中から徳川家に仕えた。徳川家康の長女と婚姻を結ぶ家柄だった。中津城は途中から奥平家の支配となり、明治維新まで続いた。
 15時半、黒田官兵衛資料館。黒田官兵衛NHK大河ドラマ軍師官兵衛」で一躍有名になった。立ち回りの難しい戦国時代を常に勝ち組についた手腕が素晴らしかった。
 16時、福澤旧居。福沢諭吉は中津の出身だった。ここでは福沢諭吉の業績について説明していた。福沢諭吉は、3回留学して、実学を重んじていた。途中からは慶応義塾を開校して人を育てた。お札の肖像になるくらいの異人。でも、その最先端を行く活動は、今の橋元徹、ほりえもんひろゆき、成田悠輔などの論客に通じるものがある?1640、出発。
 国道10号線を宇佐に移動。17時半、宇佐神宮。21時までやってるみたいだった。道鏡宇佐八幡宮神託事件について知りたかった。でも、ほとんどの施設は閉まっていた。当たり前か。さすがにあまり人気はなかった。参道は暗くて、ただ灯籠が光ってるだけだった。既に正月用の看板やロープが張られていた。拝殿にはカップルが一組以外の人気はなかった。帰り道は本当に真っ暗で迷ってしまった。携帯で足下を照らしながら進んだ。何ヵ所かに「神仏集合発祥の地」と書かれていた。そうなのか?1820、出発。
 豊後高田に向かい、1850、花いろ温泉。3日連続で走った。段々と慣れてきた。温泉は400円。あまり温泉感がなかった。そして、少しぬるかった。上がってから、ブログを打った。2050、撤収。
 近くに道の駅がなかった。20km以上離れていた。大体道の駅というのは近くにない!仕方ないので国東半島の先まで行くことにした。ナビは山の中を示していた。海沿いに行きたかったが、最終的に不安で自殺しそうな真っ暗な山の中をひたすらハイビームで進むことになったorz。
 2140、道の駅くにみ。ほとんど車が停まってなかった。ラッキーと思ったら、トイレの前あたりに何人かたむろしていた。なんだろう?一台の車が大音量で大音量でトランスを流し始めた。そいつは一度外に出て行ったが、また戻ってきた。うるさいバイクもやってきた。外では大声でしゃべってる奴らがいた。ここは族のたまり場だった。最悪。
 2245、奴らはいなくなった。帰って来ないように祈りながら寝床を作った。どうなる、俺?
 今日は大当たりだった。青の洞門、羅漢寺、中津のからあげ、中津城宇佐神宮。よく頑張った。また明日。