びーの独り言

どこいくの?どっか。

2022/08/20(土)「旅行10」

 420、大音量の放送で叩き起こされた。よく寝たけど、疲れが残ってるような気がした。エンジンによる揺れはどういうわけか少なかったけど、やっぱりフェリーではどこかにストレスがあるのかな?単純に早起きしたのも原因かもしれない。455、下船。
 505、給油して、ガソリンスタンドの脇に車を停めてブログを修正した。525、出発。
 千葉に帰るつもりだったが、明日もまだ休みだし、せっかく遠くに来てるのだから、もう一日観光することにした。
 545、八戸ICと逆方向に行ったところにあるローソン。店員のおじいさんがやたら元気だった。麻布十番一番星のオムライスがあったので思わず買ってしまった。順天堂大浦安に通ってた時に一番星でランチするのを楽しみにしてた。東日本大震災のせいで残念ながら浦安店は閉店してしまった。店員のおじいさんと話したら、めっさ津軽弁だった。6時、再出発。
 やはり田舎とは言えども、本州では家が途切れることもなく、道が狭くゴミゴミしていた。
 6時半、蕪島。ずっと来たかった。海に付き出した半島の上に城のような建物あった。城に似せた建造物って大概偽物感が半端ない。なんか雰囲気台無しだなと思ったら、蕪島神社というまともな施設だった。まず駐車場でオムライスを食べた。こんな味だったような気がした。蕪島へのアクセスは蕪島神社の中を通らねばならなかった。しかし、開門は845だったorz。若い男の子2人組が「ネットで見たらうみねこだらけだったのに、ぜんぜんいないな」と言った。そう言えばそんな気が?説明看板に「うみねこは八月上旬に他の場所に移る」と書かれていた。7時、出発。
 車を三陸海岸沿いに走らせて、緩く南下することにした。目指すは1999年に凄いと思った北山崎だった。
 710、葦毛崎展望台。西洋の城の塔のような展望台があったが、工事していたので、別の展望台へ誘導された。景色は北海道と似たような感じ。海は繋がってるからね。ただ北海道は景色がよくても展望台が整備されてなかった。
 725、種差海岸。全面的に芝生が整備されていて美しかった。
 750、階上海岸小舟渡灯台。きれいな芝生の中に灯台があった。写真を撮ってツイッターに上げたら、大量のいいねボタンを押していただいた。階上でキャンペーンをやってるのだろうか?
 845、久慈駅八戸線の終着駅で三陸鉄道の起点でもあった。有名なうに弁当を買いたかった。JRの駅は併設している店も開店前であり寂しい感じだった。無理か、と思って、三陸鉄道の駅に行くと、立ち食いそば屋がやっていて、うに弁当の幟が。見つけた!と思ったら、店のおばさんが「うに弁当は売り切れ」の表示を出してるところだった。近くの椅子でうに弁当を食べてる女性がいた。9時前に売り切れって、今後も食べるのは無理なのでは?
 道の駅のだを越えると、真新しい巨大な防潮堤と、三陸鉄道の路盤が現れた。
 925、山と山に挟まれた下安家というところに三陸鉄道の高くて大きな橋があった。
 940、三陸鉄道普代駅。元は国鉄久慈線の終点だった。八戸駅から海沿いを南に続く盲腸線の最後だったが、三陸鉄道がさらに南に伸びて、宮古線の田老と繋がった。ここは道の駅青の国ふだいになっていた。
 10時、黒崎灯台。絶景を期待したが、展望台の場所がよくわからず、先を急いだ。
 1020、北山崎展望台。1999年にやすをと車中泊した。後の写真で一番印象に残る場所だった。第1展望台からの景色は、写真と似ているけどこれじゃない感が。半島の先っぽにある第2展望台までは「363段あります」と書かれていた。階段を歩いた記憶はなかったが、ここまできたのだから行ってみることにした。第2展望台の景色は第1展望台よりもよくて、1999年に写真を撮ったのはここで間違いなかった。ノコギリ状に連なる断崖は少し霧がかかっていて幻想的な雰囲気を醸し出していた。断崖の足元には岩場にドーナツ状の海蝕洞。激しい波が打ちつけ白波となるとともに霧の一部にもなっていると思われた。来た甲斐があった。帰りの階段は汗だくとなった。11時出発。
 1115、三陸鉄道田野畑駅。ここは震災後に来たことがあった。南にある小本駅から田野畑駅の間が不通となり、代行バスで降りた。その時に駅付近を探索したことを覚えている。ここは山と山の谷間が入り江になっていて、高いところに駅があったので津波の被害を免れた。入り江の低い方は津波の影響で更地となっていた。津波がどこまで来たのかはっきりと境界がわかり生々しかった。ここには水門があり、その上部は一目見て三陸鉄道の車両のカラーリングがされていて目立っていた。今回はまだ水門の上にカラーリングが残っていたが、駅の女性によれば新しく塗り直したとのこと。駅では記念にお菓子を買った。
 入り江に降りてみると、景色はすっかり変わっていた。家はなく、仮設の長屋があった。看板を見ると国の援助で建てた漁師小屋のようだった。景色で一番違ったのは、砂浜がすべて大堤防となっていたこと。まるでダムのようだった。11時半、出発。
 田野畑の南隣の島ノ越駅。ここも入り江になっていた。駅の位置が田野畑駅よりも低くて、津波により壊滅した。今も家はなかった。大きな堤防と駅だけがあった。高台に上がると住宅があった。
 1210、鵜の巣断崖。ここも北山崎と同じようなところであり、北山崎よりは迫力はなかった。1245、出発。
 小本から進路を内陸に向かい、岩泉を目指した。このルートは小本線の未成線区間だった。かなりの山であんまり人気がなかった。一瞬、路盤を見つけたような気がしたが、ここに路盤があるとは聞いたことはなかった。
 1320、龍泉洞。前に大学友人Sが行ったと言っていた。有名な観光地なのでたくさんの人がいた。鍾乳洞の中はひんやりしていた。電光掲示板には10℃と表示されていた。様々な鍾乳石がライトアップされて美しかった。ここのメインは水の透明度が高いことだった。水は透き通っており、写真を撮ると青く光った。水本来の色なのかもしれない。
 1410、龍泉洞レストハウス。盛岡名物の冷麺を食べた。辛くて酸っぱくて甘くてとてもうまかった。
 14時半、龍泉新洞科学館。龍泉洞のすぐ近くに見つかった洞窟を博物館にしている。説明の板はボロボロで作られてからだいぶ年月が経ってるようだった。1450、出発。
 15時、岩泉駅岩泉線の終点。岩泉線は山田線の茂市と岩泉の間を結び、2010年に路盤が崩壊して休止、2014年に正式に廃止された。岩泉駅を訪れるのは3回目だ。コンクリートの立派な駅で私の中のイメージは江差駅と被っていた。施錠されていて中には入ることはできなかった。かつてここまで来たことがあるんだなと思うとじーんとした。
 ここからは岩泉線の探索をした。全然知らなかったのだが、コンクリート橋がたくさんあり、さらにガーター橋やコンクリートアーチ橋まであった。橋の博物館のようだった。並走していた川の流れはとても早くて、落ちたら確実に死にそうだった。
 二升石駅。路盤は高い突堤の上で待合室は下にあった。
 ここから山の中の一車線の国道に入った。土砂が流入して工事しているとの看板があった。赤字路線として挙げられながらも生き延びたのは、並行国道の未整備が要因だったかもしれない。
 1605、浅内駅。駅舎が残っていた。
 1640、押角駅秘境駅として有名だった。とんでもない山奥にあり、よくここに駅を作ったなあと思うくらいだった。Wikipediaによれば、国道から駅へのアプローチは川を渡らなければいけなかったが、橋が流出しており接近することは不可能とされていた。しかし、現場にはブルドーザーが入り、大規模に整地していた。ここには元々鱒の養殖場があったのだが、それを作り直しているようだった。なぜこんな山奥に養殖場が必要なのかはさっぱりわからなかった。
 17時、岩手和井内駅。国道の脇にありフルセットで残っていた。それもそのはずで、ここからは期間限定でトロッコ体験ができるようだった。知らんかった。また乗りに来なきゃ行けないのか?駅舎の前では若いお母さんが子供を遊ばせていた。私が写真を撮ってるとイヤな顔をして、子供を脇に寄せていた。
 1710、中里駅。ここもフルセットで残っていた。トロッコの終点と思われた。
 1720、仮屋駅。駅舎もホームもレールもなかった。
 1735、茂市駅。山田線の現役の駅。岩泉線の2回目の探索では、この駅で2時間くらい待たされた。駅舎は新しくて、2回目の探索の時と同じかはわからなかった。
 三陸海岸を南に行くのはここで終わりにして、盛岡に向かうことにした。山田線が不振なのは高速バスがたくさん走っているためだった。そのバスが走ってると思われる道は、無料の自動車専用道だった。途中で眠くなってきて、窓を開けて大きく開けて走った。
 1840、盛岡で給油。
 デイリーヤマザキで朝食用あんパンを買った。盛岡と焼き印がしてあった。
 盛岡南ICから東北道に入った。少しでも千葉に近づいておきたかった。最初は120km/h区間だった。ぶっ飛ばした。やっぱり眠くて、CDに合わせて歌を歌った。
 20時、金成PA。24時間営業のセブンイレブンがあったので、唐揚弁当を買った。今日はここで車中泊することにした。照明が明るく、トラックのエンジン音がうるさかった。PAを選んだのは失敗に思えた。
 今日はずっと気になっていた北山崎や龍泉洞に行けたのがよかった。また岩泉はとんでもない山奥に街があった。どうしてこんなところに街ができたのだろう?それからなぜここに鉄道を遠そうと思ったのか?早々に廃止になったのもわかるような気がした。押角駅は想像を越えるアクセス困難な駅だった。行ってみるもんだな。