道の駅しゃり。起床は450。また雨模様だった。夜中はトイレには行かなかった。隣の車が何かをピーピー鳴らしていた。見ると、ワゴンだったのがバンに代わっていた。基本的に明るくなったら誰かが起きるものだから仕方ないと思っている。朝食後、昨日のブログを修正、髭剃り。
610、出発。今日は根北線の廃線跡探索をすることにしていた。根北線は知床半島の斜里から標津までを結ぶ目的で、斜里から途中の越川までの12.8kmを結んでいた。1957年に開業して、1970年に廃止されたわずか13年しか存在しなかった幻の路線だった。これまでの情報では、ほとんど路盤も駅跡も消えていることはわかっていた。完全に自己満足のためだけだった。今回の探索方法は、Wikipediaには駅跡を示す地図があったので、Googleマップでナビすることができた。また「歩鉄の達人」の写真も参考にした。
610、釧網線知床斜里駅。根北線の起点となる駅は真新しい駅舎だった。「オホーツクに消ゆ」のパネルがあったのには驚いた。
ここから根北線は国道244号線に沿ったじゃがいも畑の中を通ることとなった。基本的に何にもない場所だった。
635、以久科駅跡。以久科の集落の中にあった。情報によれば、駅へのアプローチは存在するが、駅はじゃがいも畑の中に消えてるようだった。アプローチになりそうなのは神社の横の道しかなかったが、確信は持てなかった。
645、西二線仮乗降場。仮乗降場は簡易的なホームしかなかったから見つけるのはほぼ絶望的だった。じゃがいも畑の中の砂利道の途中。路盤はじゃがいも畑になっていて、すっかり消失。駅跡もわかるわけがなかった。ただ、遠くに見える防風林の並木に不自然な空間があり、そこを路盤が通ってたのではないかと考えることもできた。でも、強引すぎるかと思い直し、結局はよくわからなかった。
ここからの路盤は、碁盤の目に敷かれた道を斜めに走る砂利道に沿って進んだようだった。7時、下越川駅付近にはかろうじて牧場があった。710、十四号仮乗降場はじゃがいも畑。国道244号線にぶつかったところが、715、十六号仮乗降場。7時半、越川駅跡は白い花の咲くソバ畑の中と思われた。どこも路盤も駅跡もまったく痕跡を見つけることすらできなかった。
越川駅跡から先は未成線区間だった。ここに根北線最大の遺構があった。越川駅跡からすぐの地点、森の中から国道を跨ぐようにかけられた古代ローマ遺跡を彷彿とさせるアーチ橋が出てきた。735、越川橋梁(第一幾品川橋梁)。15年ぶり2回目。越川橋梁は全長147m、高さ20mのコンクリート製10連アーチ橋だった。国道を跨ぐ部分は撤去されていた。最初に来た時はとても感動したものだったが、今回は来て当然であり感動も薄かった。でも、こんな山奥にこんな巨大な構造物をよく作ろうと思ったなという気持ちは変わらなかった。
750、越川温泉。昨晩来た場所がどういうところだったか確認したかった。温泉に入るつもりはなかった。車が一台停まっていた。北見ナンバーだった。建物の外にははこくろさんがコメントで教えてくれたバッテリーに繋ぐクリップがぶら下がっていた。動作するかは試してないけど。待合室はソファーがたくさんあり、ポスターもたくさんあり、乱雑な感じだった。風呂の方からジャーっと身体を流す音が聞こえた。風呂は覗かずに撤収した。
斜里に戻って、810、天に続く道展望台。どこまでも続くまっすぐの道。こういうのはここに限らず北海道にはある。この旅で初めてアジア系の旅行客を見た。ここは有名なのだろうか?
網走に向かって移動した。9時、濤沸湖。降りたったのは25年ぶり2回目だけど、15年前も通っていた。
950、モヨロ貝塚館。オホーツク文化を代表する遺跡だった。北海道には弥生文化はなく、続縄文時代から擦文時代と続くが、オホーツク海沿岸では、さらに違ってサハリンや北方文化の影響を受けたオホーツク文化が発達した。説明員の女性がいたのでいろいろと話した。
オホーツク文化の特徴は、住居が六角形の竪穴式で深さは1m以上掘り下げていた。大きさは10mあり、数家族で住んだ。家の中には熊の骨が重なって出土したりした。また埋葬の方式は頭に壺を被せることだった。そして、壺の底は地面から上に出していた。壺の底には穴が空いてるものもあった。地面から壺の底がたくさん突き出てる様子はインパクトがあった。
1120、出発。ネットで海鮮を探した。
11時半、鮨ダイニング月。カツオ、生サーモン、活〆ぶりとろ、本まぐろ赤身、えんがわ、さんま、いくら、ホタテ、赤貝、数の子、玉子、青さのりみそ汁。どれもうまかった。飲んでなくて4213円。コスパは少し悪かった。
1235、北海道立北方民族博物館。ウィルタのジャッカ・ドフニ関連が知りたかった。ここは世界で北に住んでる人たちを一緒くたに扱っていた。正直、エスキモーとかフィンランドの方の人とかを入れるのはどうかと思った。それから展示が、例えば服だったら民族名と服がごちゃごちゃに並べられてるので、頭の中もごちゃごちゃになった。各民族の差がわかるように整理して欲しかった。ウィルタの話は他の民族の間に埋もれてしまっていた。ただウィルタは樺太の中部から北部にかけて住んでいて、樺太の敷香にあったウィルタが住んでいたオタスという場所が日本人観光客に人気だったことを知ることができた。
1405、出発。釧網線網走駅に寄った。何回か訪れているが、特に変わりはなかった。
14時半、網走市立郷土博物館。モヨロ貝塚の展示はこちらの方が豊富だと聞いたので寄ってみた。トド、アザラシ、熊などの剥製が置いてあった。北海道ではデフォルトなのかな?モヨロ貝塚関連の展示はそんなでもなかった。だんご虫の展示が印象的だった。
1510、給油。アポロステーション網走SS。
1525、能取岬。25年ぶり2回目。15年前も能取湖の周りを走ってるようだが、多分寄ってないと思う。草原が美しい印象だったが、今回もそれは変わらなかった。
ここからは湧網線の探索をすることにした。湧網線は網走から中湧別の89.8kmを結び、1953年に全線開業、1987年に廃止された。
16時、卯原内駅跡。15年ぶり2回目。卯原内交通公園として、ホームと駅舎が現存していた。ホームには49643号と客車が留置されており、駅舎は網走市鉄道記念館になっていた。駅全体は能取湖に面しており、路盤はサイクリングロードになっていた。駅舎1階の喫茶店で資料室の鍵を開けてもらった。湧網線グッズが充実してるのは期待どおりだったが、北海道の廃止された路線のさよなら切符やサボなどもあり、圧巻だった。誰が集めたんだろう?
網走方面に戻って仮乗降場を探したが、よくわからなかった。仮乗降場は今回は探すのを止めた。路線が長くてそこまで手が回らなかった。
1645、二見ヶ岡駅跡。国道239号線からサイクリングロードに至るアプローチが1箇所しかないので、そこが駅跡であると判断した。
Uターンして中湧別方面に進んだ1655、セイコーマート卯原内店。ガリガリ君を食べた。
1715、北見平和駅跡。ここも二見ケ岡駅跡と同じ理由。
17時半、能取駅跡。コンクリート製のホームが残っていた。
1745、常呂駅跡。15年ぶり2回目。敷地は常呂町交通ターミナルになっていた。
1820、北見共立駅。共立という集落の中にあった。
1850、北見富丘駅跡。碁盤目のように整備された農場の中にあった。一度場所を間違えてしまい、再チャレンジして発見した。大規模な掘割があり、路盤だとわかった。
19時、浜佐呂間駅跡。駅の敷地はわかりやすかった。
すっかり暗くなった。なによりえらく疲れていた。途中ではあるが、今日の探索はここで終了することにした。昨日風呂に入ってないので今日は風呂に入りたかった。風呂を探すと37km先の中湧別にしかなかった。ミスった!仕方ないので中湧別まで移動することにした。でも、明日また探索を再開するために37kmを戻るのか?走ってる途中で道の駅の看板が出てきたので、入ることにした。
1915、道の駅サロマ湖。窓を開けなくても涼しい。びっくりするくらい静か。窓を閉めてるからかもしれない。非常食のinバープロテインのベイクドビターを食べた。疲れてるけど、頑張ってブログを打った。