びーの独り言

どこいくの?どっか。

2021/05/30(日)「新大阪」

 10時出発。今日もよく晴れていた。阪神で梅田に行き、阪急で十三へ。ますのすしを買い忘れたorz。
 今日は新大阪連絡線を探索した。新大阪連絡線は阪急の未成線で十三から新大阪を経て淡路に至る路線である。現在、十三と新大阪だけが計画線として生き残っており、なにわ筋線と繋げることが検討されている。
 十三駅の東口から左の商店街を進んだ。踏み切りを渡り宝塚線に張り付いた。未成線宝塚線の東側を並行に進む予定だった。路盤上に建物があったりはしたが、不自然な駐車場もあり、比較的トレースしやすかった。しばらく行くと、地上に複線の貨物線、奥に新幹線の高架と直角にぶつかった。未成線は、貨物線と新幹線の間の高さをすり抜け、右カーブを描き、新幹線の高架に寄り添った。そこからは新幹線の高架横にずっと駐車場が続いた。遠く新大阪駅まで見渡せて壮観だった。
 新大阪駅には駅を作るための基礎が残されていた。今、その一部は新幹線のホーム拡張に使用されている。基礎の向こうには阪急のビルが立っていた。淡路駅に延ばすための路盤に建てたのだろう。基礎を、拡張された新幹線ホームから見るために、入場券で駅の中に入った。新大阪駅にもますのすしが売っていてそれを狙ったというのもあった。
 ますのすしは売り切れだったorz。代わりに鳥取駅のかに寿しを買った。これも好きな駅弁だが、1200円もした。地方の駅弁は取り寄せるために何百円か上乗せしてるのだが、それにしても高いと思った。コロナのせいで駅弁も値上げしているのかもしれない。
 拡張された27番ホームに上がり、外が見える場所を探したが、パッと見でそんなとこはなかった。ホームは長くて、端から端まで歩くまでの根性はなかった。このホームにはあまり新幹線は到着しないようで、館内放送でそのことを伝えていた。ホームには駅員さんしかいなかった。ベンチに座ってかに寿しを食べるには好都合だった。12時、かに寿しを食べようとすると、駅員さんに声をかけられた。「このホームにはしばらく電車は来ませんよ」「入場券だから大丈夫です。駅弁食べるから人がいない方がいいです」。駅員さんは笑って去っていった。
 後半は新大阪から淡路駅だった。新大阪の阪急ビルの後ろからスタート。あからさまにバランスを欠いた不自然に広い道があり、それだとすぐにわかった。新幹線の高架をアンダークロスし、あとはずっと真っ直ぐ。先には淡路駅の工事中の高架が見えた。
 淡路駅は大学時代に通学で通過していた。複雑な平面交差が特徴で鉄分の濃い人たちの間では有名だった。淡路駅で阪急が地上を走るのももうすぐ見れなくなる。少しでもその姿を動画に収めたかった。駅の外側からとホームから動画を撮った。いつか懐かしむ時が来るに違いない。
 阪急で天神橋筋六丁目に移動して、阪神の北大阪線跡を探索することにした。北大阪線は野田から天六までを結ぶ路面電車だった。阪神国道線の廃止と共に運命を共にした。天六まで阪神が来ていたことがビックリだった。
 天六の交差点は以前からどこかおかしいと思っていたが、路面電車のターミナルだと考えれば腑に落ちた。東梅田に向かう都島通の北隣が北大阪線跡だった。こんな大きな道があったのか、というくらい大きかった。真っ直ぐ行くと、JRを越え、阪急に突き当たった。
 ここで大阪駅ますのすしを買いに寄り道。廃線跡探索より実利である。14時、最後の1個をゲットした。
 ご機嫌で廃線跡探索再開。北大阪線跡は阪急と並行するように高架になった。これは梅田貨物線の跨線橋だった。そのまま阪急中津駅横を過ぎて、淀川手前で左折して、地上に降りた。今度は右折すると、あとはひたすら道なりだった。この道は普通の二車線でとても路面電車が走っていたようには思えなかった。
 阪神野田駅に到着すると、一発でどこに路面電車の停留所があったかわかった。停留所らしき場所はバス乗場になっていた。ここには阪神本社があり、阪神国道線にも接続していた。今は棒線駅だが、昔は阪神の要の場所だったんだろう。
 野田から阪神で帰った。帰宅したのは16時だった。
 今日は阪急新大阪連絡線だけの予定だったが、時間があったので阪神大阪線も片付けた。新大阪連絡線はあまりにも楽であり見所も多かった。阪急は採算が取れないから新大阪に延ばさなかったが、もし延ばしていたなら新大阪はもっと発展していただろう。鶏が先か、卵が先かであると思う。北大阪線路面電車だけに何の痕跡もなかった。淀川の側を走り、都会の喧騒とは離れていた。廃線時でも利用者は多かったらしい。重複路線もないし、今残っていれば面白かったのにと思う。