びーの独り言

どこいくの?どっか。

無限の教室

無限論の教室 (講談社現代新書)

無限論の教室 (講談社現代新書)

 「LIBRO」で大学友人Sに「買いたい本がない」と言ったら薦められた。講談社現代新書の本は期待できる。
 内容は対話形式で進んでいく。主人公は大学生で無限論の講義を聴くという設定。とぼけたゆるいノリで進んでいく。抽象的でわかりにくいとこがあるが、わからないなりに飛ばして読んでもなんとかなる。読んでる最中は、どこに向かって話が進むのかまったくわからなかった。
 テストを受けるつもりで以下に内容を記述する。完全に理解したわけじゃないので、わかりやすさより備忘録的な。
 無限は見方により2つに分かれる。一つは、線分には無限の点がすでに存在しているとする「実無限」。例えば、10と0.99999・・・は違う数字だと考える。二つは、線分は分割しようとするといつまでも分割できる「可能無限」。分割しない限り無限にはならない。
 無限の基本概念として集合の濃度がある。2つの集合があり、要素どうしが一対一で対応する場合、濃度が同じと言う。例えば、自然数の集合と偶数の集合を比較したとき、自然数をnとすると偶数は2nと表され、一対一対応するから、濃度が同じとみなす。因みに集合の大きさを考えるとき、自然数の集合の方が偶数の集合の倍になる。
 まず実無限の立場で解説が始まる。カントールは一次元も二次元も何次元になってもすべて同じ濃度であることを発見した。また自然数の集合と無理数の集合では、対角線論法を用いて、無理数の集合の方が大きいことを発見した。
 また元の集合とべき集合では必ずべき集合の方が濃度が大きくなる。べき集合とは、集合の要素どうしを組み合わせて、部分集合を作り、その部分集合すべてを要素として含む集合である。
 ここでカントールパラドックスが生じる。集合の集合すべてを仮定したとき、これは最大濃度になるはずであるが、集合の集合すべてのべき集合を作ると、それよりも大きい濃度になってしまう。
 さらにラッセルのパラドックスが見つかった。自分自身を要素としてもたない集合をラッセル集合とする。例えば、図書館の本の目録を作るとき、目録自身を目録に載せるかどうかという問題を生じるが、ラッセル集合では目録自身は目録には載せない。ラッセルのパラドックスとは、ある集合xがラッセル集合Srの要素であった場合、xはxの要素ではないことが成り立つ。このxにSrを代入すると、SrはSrの要素であり、SrはSrの要素ではない、という矛盾が生じる。
 以上のように実無限の立場では2つのパラドックスが生じて行き詰まってしまった。では、可能無限的な見方をするとどうだろうか?
 可能無限では、カントールパラドックスは、べき集合を体系的に無限に組込むことができないので、パラドックスを解消できる。ラッセルのパラドックスは、「ある集合xがラッセル集合Srの要素であった場合」の箇所で、ある集合xに自分自身が集合に含まれているかどうかのチェックが加わるので、ラッセル集合はSrではなく、別の集合Sr'となってしまっている。よって両方ともパラドックスは解消されるとされている。この下りは正直わかりづらく、直感の方がわかりやすい。すなわち、カントールの方は、「集合の集合すべてが濃度最大」の部分は実無限であるが、「べき集合をとる」部分はどこまでも大きくなるので可能無限に近い考えであり、同列に扱うのは無理がある。ラッセルの方は、要素に集合を入れるのは入れ物が間違ってる。いずれのケースも語謬を生じているように感じる(間違ってるかもしれないが)。
 可能無限ではパラドックスが解消される代わりに、無限を扱う場合に排中律が拒否されるという問題が生じる。排中律とは、問題Aを考えるとき、その答えがyesかnoの二者択一になることである。排中律の拒否とはyesかno以前に「問題が存在しない」という答えが生じることである。例えば、πを展開したときに7が7回連続してでてくるか、という問題に対して、πを3.14・・・と記述する場合、実無限では・・・は書くのを省略してるだけで、数字が存在すると考えるのでyesかnoで答えることができる。可能無限では・・・には数字を展開しないかぎり数字は存在しないと考えるのでyesかnoでは答えることができない。排中律を拒否すると何が困るかと言うと、二重否定が成立しなくなり、命題を否定する背理法が使えなくなってしまう。これは数学の根底を揺るがす大事件だった。
 大数学者ヒルベルトはこれに真っ向から反発し、数学は完璧なはずなんだと主張した。具体的には、数学の定理は公理の有限回の操作で矛盾なく完全に説明できるとし、ヒルベルトプログラムと称して証明作業に取りかかった。ポイントは、操作を無限ではなく有限にして、排中律を回避している点であった。
 ここでついに若き天才数学者ゲーデルが登場する。ゲーデル不完全性定理を証明することによってヒルベルトを完膚なきまでに叩きのめした。不完全性定理は2つの定理から成り立つ。第一定理は「無矛盾で完全な自然数論の公理系を作ることはできない」、第二定理は「有限の立場のメタ数学では自然数論の無矛盾性は証明不能」。ゲーデルは有限の式変形を自然数に対応させ、対角線論法で第一定理を証明した。続いて、完全性を諦めたときに無矛盾な公理系を作れるかどうかを検討し、これすら否定したのが第二定理である。すなわち数学の公理系には必ず矛盾があることが証明されてしまったのである!
 最後に印象的な一文がある。「公理系が必要ならば作ってもよい。しかし、完結した公理系など作れっこないのです。無限は完成を拒んでいます。そこからはみ出たものを捉えようとし、捉えたと思ったときには新たなものがはみ出ていく。このたえざる歩みこそが、人間が無限を生きるということにほかなりません。そもそも完結した全体としての完全なんていうものがないのですから、「不完全」ていうことも無意味でしょう。それはむしろ永遠の未完成と言うべきなのです。」。
 私にはバランスの問題であるように見える。現状に不満があり何かを変えようとすると、問題は解決するかもしれないが、お金がかかったり、時間がかかったり、別の問題が生じたりする。これはただ落としどころが変わるだけである。例えば、痩せたいと思っている人がいて、基本は食べるのを減らすしかないが、それは止められないとするなら、もう薬に頼るしかなくなくなるw。私は自然数という自然じゃないものを作った時点で、必ず現実とのズレが生じて、それは何をしても修正不能なのであるように思う。現実に現れている真実は一つである。矛盾を生じているのは、現実と記述とのギャップのためであろう。実無限と可能無限も単に視点の違いにすぎず、解決策にはならない。コップの半分まで水が入っているときに、まだ半分と思うか、もう半分と思うかと同じ状態である。それか、本当のことなんて自分が思ってるだけで、最初からなんにもなかったのである!
 3回読んだ。頑張れば1日で読める。最初は軽い本だと思った。しかし、とても深い本だった。読めば読むほど理解が進み、なんとも思わなかった文が急に意味を持ち、さらに他の文の意味も変わり・・・。まるでパズルを解いているようで、これは読書をしていて最高に面白いパターンだった。3人のキャラクターもどんどん愛しく感じられるようになった。もうお別れだと思うと淋しい。続編ないのかなあ?この本を読むには、数学に興味がないとしんどいだろう。わかる人にだけ無限の楽しみが広がっている。