びーの独り言

どこいくの?どっか。

和解する脳

和解する脳

和解する脳

 池谷先生の本。弁護士の教授との対談集。対談集は嫌いだが、池谷先生だったら面白いかもと期待。
 面白かった。3回読んだ。言っているエッセンスは今までと変わりはないのだが、角度が少し違うと全く新しい話のように見えた。単に忘れてるだけかもしれないがw。それに弁護士の世界の考え方というのがなるほどと胸に落ちた。私が正しいと思っているものは実は正しいかどうかなんてわからない。理屈にのっとっているからってそれも所詮作られたストーリー。そんなことを今更気づかせてくれた。
 池谷先生の「単純な脳、複雑な「私」」で「因果関係はなくて相関関係しかない」という一文にノックアウトされた。それに関連して、科学は演繹である、というのが加わった。帰納と演繹はセットで語られることが多いが、どちらがどちらかがわからなかった。演繹とはA=B、B=C、ゆえにA=Cのように証明のどこにも疑いを挟まないことを言う。科学というのは演繹の塊である。帰納とは、例えば10個入りの卵の9個が腐っていたら最後の一つも腐っているように思えるが、絶対そうであるかと言われれば証明することはできない。殺人事件において、証拠がこんだけでてきたから、被告が犯人だ、と決め付けても本当のところは証明不可能。科学と法律とは方法論が全然違うのだ。
 科学は仮定を立ててからそれを証明していくと思われているが(私もそう思っていた)、実際は仮定を否定することしかできないという事実を指摘されて震えた。それと似たようなものに悪魔の証明というものがあって、○○はできない、という証明をするのは不可能。そういえば、仕事において○○はできませんというのは証明できないよ、というのを聞いたことがある。理屈がこうだから正しいなんて思ってたふしはあるけど、そんなのはウソかもしれないというのを思い知らされた。
 裁判において弁護士はまず直感を元に結論を先に固め、それを補完する法律を探している。そして、裁判官に良い印象を与えるために話の順番などを調整する。これってそのまんまうちの業務に当てはまる。正しいかどうかなんてどうでもよくて、役員の心象を汚さぬようにうまく話しをしなければならない。滋賀工場時代に得た教訓、人に理解させないと仕事をしたうちに入らない、というのと同じような気がした。
 結局、正しいというのはなんだと問われたときに、正しいというものは見方によっていくらでも変わるということなのだ。それは例え理屈が正しいとしてもだ。理屈って一体なんだって言われるとそれはたまたま決まったルールであり、場所や時間が変わればルールも変わってしまう。理屈がダメだとすると、心地よいかどうか、とか都合がいいか、だけになってしまう。人ってのは集団で生活し、その集団の中の人間関係だけで生きている動物で、その中で自分が心地よかったらそれでいいのかもしれない。
 自由意志の話にはハッとした。やはり前に読んだときにもハッとしたが、しばらく忘れていた。人が何かをやろうと思ったときには、思った前にすでに脳が動いていて、その後にやりたいという感情が湧いてくるらしい。先に脳が動いているなんてある意味怖いことだ。自分で選んでいたと思ってたのに、それより先に脳が選んでいた。自分で選んでいたのは後付にすぎないのか。これにはその後の話があって、やりたいと思ってから実際にやるまでの間に少し時間があるので、その間に自分の意志でやるかやらないかを決めることができる。つまり人は、やる、を選ぶのではなく、やらない、を選ぶことはできるのだ。この話を見るたびに思い出すことがある。昔、強烈な感情があったのに、選ばなかったときのことだ。結局のところ自分を信じてなかったんだろうなあ。今でもそういうところがあるもん。M会の人に「それじゃもう無理ですね」と言われたことを覚えているし、今では自分もそう思っている。当時、自分の感情を越えた何かがまだあるんじゃないかって思ったけど、どうやらやりすぎたみたいだった。そういう失敗を重ねないとわからないなんて馬鹿なんだよな。
 作話のことも思い出した。前述の裁判の話でも出したけど、人って後から辻褄を合わせる傾向がある。脳がショックを受けないようにうまくコントロールするらしいのだ。普段の生活なんて辻褄のおかしいところがあっても気づかないうちに作話するらしい。自分に言い訳ばかりしてるのだ。そうして心のバランスを保っている。そういえば、えせドクターとかKプロとかは作話の名人だ。ウソばかりついてるが、あれはあれで人間の一つの面なのかもしれない。私のウソと思う範囲とあいつらのウソと思う範囲が少し違うということなのかもしれない。でも、あいつらのことは大嫌いw。で、前述のことを未だに作話もできないというのは相当終わってるなあ、なんてことを思わなくはない。それが私らしいなあというのも半分思っていることを付け加えておく。
 池谷先生は奥が深い。年が一つしか変わらないのに、こんな凄い人が世の中にはいるんだな。物質が満たされるとこれからは精神の時代になると思う。そのときには脳科学がクローズアップされるのは間違いないだろう。人は歴史上ずっと自分は何者かというのを知りたがっていた。もしかすると、果てがないと思われていた議論にもやがては終わりが見えるのかもしれない。それくらい期待している。影響がありまくりだ。