びーの独り言

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羅生門・鼻

羅生門・鼻 (新潮文庫)

羅生門・鼻 (新潮文庫)

 私の中で一番気になる作家、芥川龍之介に手を出した。高校1年の教科書に「羅生門」が出ていて、独特の鋭い洗練された雰囲気という印象が残っていた。M先生が「あの光は下人にとって希望の光だったんですよ」って言ってて、「たまたま暗いから蝋燭に火をつけてただけちゃうん」と思ったことを覚えている。
 この本は短編集。「羅生門」「鼻」「芋粥」「運」「袈裟と盛遠」「邪宗門」「好色」「俊寛」が入っている。どれも日本の古典をモチーフとして、舞台も全て平安や室町時代である。古典に書かれているエピソードに、現代の解釈を与えるという一つの手法らしいが、これが独特の世界を演出しているのだ。回りくどいことなく、実にすっきりとまとまっている。短編なので冗長でもなく、読んでてありがたい。
 「羅生門」は生きるためには悪いことをしても仕方ないという気持ちになるまでを描写している。「鼻」「芋粥」は人が何かにこだわる様を描いている。「吾輩は猫である」でも、こだわりを持つから云々みたいな場面があって、最近私もそんなもんだと思うのだ。
 「俊寛」の一文をメモしておく。「しかし会えぬものならば、−泣くな。有王。いや、泣きたければ泣いても好い。しかしこの娑婆世界には、一々泣いては泣き尽くせぬ程、悲しい事が沢山あるぞ」「女房も死ぬ。若も死ぬ。姫には一生会えぬかも知れぬ。屋形や山荘もおれの物ではない。おれは独り離れ島に老の来るのを待っている。−これがおれの今のさまじゃ。が、この苦艱を受けているのは、何もおれ一人に限った事ではない。おれ一人衆苦の大海に没在していると考えるのは、仏弟子にも似合わぬ増長慢じゃ。「増長驕慢、尚非世俗白衣所宜」艱難の多いのに誇る心も、やはり邪業には違いあるまい。その心さえ除いてしまえば、この粟散辺土*1の中にも、おれ程の苦を受けているものは、恒河沙*2の数より多いかも知れぬ。いや、人界に生れ出たものは、たといこの島に流されずとも、皆おれと同じように、孤独の歎を洩らしているのじゃ。」
 芥川龍之介は大正時代の作家であり、夏目漱石よりは少し後になる。これらの短編集は、デビューしたての著作であり、どこまでも技巧的であり、自伝的な要素は見当たらない。だが、後に告白調の文章に変わり、「唯ぼんやりした不安」と書き残し、35で自殺を遂げてる。
 今の私は37を少し越え、年齢的には同じような不安を抱えているのか、そうでないのかは気になるところで。芥川もまた太宰治の晩年のような心持ちだったかどうか知りたいとこである。私の想像では、死ぬというのは生きると同じで、死ぬことにより自分の手で自分の人生をコントロールしたことになるし、今までの著作で主張していたことがウソではなく、命を賭けて主張してきたことと受け止められるようになる。私の場合は、自分の心をうまく表現することができない。自分ですら気づいてないのかもしれない。文豪たちの言葉を借りれればと思っているが、思想まで受け売りと言われれば、それは自分の考えなのかどうかも怪しくなる。

*1:日本のこと

*2:ガンジス川の砂