びーの独り言

どこいくの?どっか。

2024/12/02(月)年休「那須」

 道の駅那須高原友愛の森。当たり前だけど、寒かった。寒くてなかなか毛布から外に出られなかった。6時起床。外は暗かった。素早く寝床を片付けて、車のエンジンをかけた。車が暖かくなるまで、手を擦ったり足を閉じたりして、暖を取った。外は地平が白み始めていて、空とのグラデーションが美しかった。これは予定調和の1日の始まりではなく、私が自由にできる1日の始まり、希望に溢れる朝だった。フロントガラスはバリバリに凍っていた。気温を調べると1℃だった。それは凍るはずだ。道路が凍結してるかもしれないので、しばらく動けないかもな?朝食後、昨日のブログを修正した。
 720、出発。施設の開く9時まで辺りを探索することにした。殺生石を目指した。途中で那須湯本を通った。温泉街。箱根湯本みたいな名前だと思った。硫化水素の臭いが車の中まで漂ってきた。しばらくすると温泉神社が出てきた。その先が殺生石の駐車場だった。
 7時半、殺生石駐車場。車を降りると、強い硫化水素臭が立ち込めていた。駐車場からは木道で殺生石まで歩くスタイル。殺生石まではいわゆる温泉地によくある「地獄」のようになっていて、石がガレていた。木道は凍っていて白く霜が降りていた。殺生石は九尾の狐が化けたもので毒ガスを発生すると言われていたが、2022年3月に殺生石は真っ二つに割れてニュースとなった。その後どうしたのだろうと思っていたが、割れたままで放置されていた。断面が鮮やかだった。巻いていたしめ縄もそのままぽかった。
 殺生石からは温泉神社に行けるようになっていた。温泉神社式内社で、那須与一屋島の戦いで扇の的を射る際に「南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え」と祈願した。
 山の上の方にも何かありそうなので車で向かうことにした。
 815、つつじ吊橋駐車場。つつじ吊橋までは少し歩いた。吊橋の長さは130m。なぜここにこんな大きな吊橋があるのかわからなかった。眼下には廃アーチ橋があった。かつて遊歩道の一部だったのだろう。
 8時半、那須高原展望台。「恋人の聖地」となっていた。たまに「恋人の聖地」って見かけるが、桂由美プロデュースでここが100箇所目らしかった。独身のおっさんには無関係なものだが、もしかすると巡ってる人もいるのかもしれない。展望は素晴らしそうだが、残念ながらもやっていた。山の方はよく見えた。
 さらに上の方を目指したが、840、道路がシャーベットになっていたため引き返した。本当はこの先にはロープウェイがあったはず。
 9時、戦争博物館。私設の博物館。戦車や戦闘機やらの屋外展示物があり、大いに期待した。受付のおばさんに1000円を払った。おばさんは軍歌を流し始めて、館内の見どころをレクチャーしてくれた。中に入るまでに高射砲などがあり既に魅了された。中は陸軍と海軍に分かれていた。これは時間がかかりそうと思うくらい展示があったが、説明はあまりなかった。小野田寛郎横井庄一の話があった。淡々と展示してあって、館長の想いもあったのか、今まで見たことのある施設とはまた違った印象だった。よくここまで集めたものだ。インパクトのある施設だった。
 940、創作仮面館。ここは住んでた人が亡くなってから閉館となっていた。建物の外観から仮面だらけだった。この方はアーチストだった。ひたすら仮面を作っていた。人からは距離を置き、人と会う時には仮面をつけていたそうだ。とても寂しい場所だった。
 行きたいところが開くまで時間があったので、昨日通り抜けた塩原に向かった。
 1015、もみじ谷大吊橋。もみじがきれいなのではないかと期待した。車から降りる時に、スマホを地面に落としてしまいカバーが割れてしまった。一気にブルーになった。まだ買ったばかりなのにorz。吊橋は300円だった。見た目から大したことなさそうなのに300円払うのは躊躇われた。でも、払うんだよなあ。320m。さっきのつつじ吊橋と基本同じだった。対岸には燃えるオレンジ色のもみじがポツンポツンとあった。1本1本が見たいわけではないんだよなあ。思ってたのとは違っていた。
 1105、源三窟。壇ノ浦の後に源頼朝に追われた義経の家来だった源有綱が隠れた洞窟。本当だろうか?600円。まずおじいさんのレクチャーから。おじいさんは早口で明らかにやる気がなかった。おっさんには説明する気がないんだろな。鍾乳洞の入口ではまず一休さんがお出迎え。源有綱は米を研いだ研ぎ汁が洞窟から外に出て頼朝に見つかったそうだ。一休さんは「無洗米だったらよかったのに」と言った。後は狭い鍾乳洞内にいくつか人形が。鍾乳洞から出たら、今度は簡単な展示コーナー。鍾乳洞から見つかった鎧があった。本当?とても胡散臭い施設だった。
 1205、塩原電車塩原口駅跡。塩原電車は東北線の西那須野駅から塩原口駅の14.6kmを結んでいた。1912年に西那須野と関谷間が開業。1915年新塩原まで延伸。1922年塩原口まで延伸。1932年に廃止。塩原口駅はガマ石園地となっていた。「歩鉄の達人」では途中の勾配がとても鉄道があったと思えないので正確な位置はわからないとなっていた。しかし、那須塩原市が塩原口駅はガマ石園地にあったとしていた。
 那須高原に戻ることにした。
 12時半、気まぐれキッチンぽの。ここはグーグルで4.7点と高得点だった。女性2人でやってる店でとてもおしゃれだった。メニューは「ぽの」と「気まぐれランチ」だけ。「ぽの」を注文した。からあげ、ごはん、サラダ、本日のおかず、味噌汁、本日のデザート、ドリンク。ドリンクはホットコーヒーを頼んだ。味は女性的な優しい感じ。ほんわかした。1100円。コスパが素晴らしかった。これはいつかまた訪れること決定!
 1410、大麻博物館。気になる物件だった。なぜ大麻という興味。どんな博物館だろうとワクワクしたら、展示はほとんどなくて、凄く小さなお店といった風情だった。奥のカーテンからおじさんが出てきた。レジに座るおじさんと2人きり。どうしよう?別に欲しいものもないしなあ。やらかしたなあ。とても気まずかった。店の中をすべてチェックしてあとは帰るだけの状態で、おじさんに思い切って話しかけてみた。おじさんはMacを使って大麻について説明してくれた。自費出版の1600円の本を購入すると、話が弾んだ。
 大麻マリファナのような麻薬のイメージて語られるが、元々は日本古来生活に根付いた植物だった。衣服、魚網、下駄の鼻緒など大麻製品は多かった。神社関連のグッズも大抵大麻からできている。昔は栽培農家も多かったが、戦後GHQの指導により大麻撲滅作戦が始まった。日本で栽培している大麻の種類はあまり薬効はないにも関わらず栽培が禁止されようとしていた。なんとか撲滅を避けるために大麻取締法が制定されて、大麻の栽培は免許が必要となった。昭和40年代から大麻の生産量はみるみるうちに減ってきた。これは化学繊維や綿の普及、そして大麻製品が機械化できなかったことによる(個人的には確か染色性も悪かったような覚えが)。現在では神社関連のために細々と栽培が続けられているだけである。
 現在、流通している「麻」はリネンやカラムシなどであり、大麻とは全然関係のないものである。「麻」と呼ばれるものはたいへん種類が多くて大麻に対する誤解を生む原因ともなっている。大麻は背の高いまっすぐな植物であり、まっすぐ正しいことの象徴であった。人の名前に自然と「麻生」「麻布」「麻子」「麻美」などと用いられてきた。葉っぱはもみじのような8つの葉からなり、着物の柄などに用いられてきた(その辺に生えてないからわかりにくいよなあ)。
 館長によれば、栃木県は大麻の栽培が盛んで特に鹿沼の方で栽培しているとのこと。大麻の文化を後世に伝えたいと考えて博物館を作ることにした。大麻は法律の刑罰があまりにもバランスを欠いているということだった。確かにそういう一面はあるように思えた。しかし、個人的な考えとしては、大麻に何か問題があったとしても、もし大麻が生活必需品であれば、ここまで生産量が落ちることはなかったであろう。リチウムイオン電池が爆発するかといって使用停止にはならないし、フグ毒が危ないからといってフグを食べることが禁止されているわけではない。すなわち、大麻の生産量が落ちたのは、代替手段である製品が出てきたからであろう。決して麻薬になるという理由だけではないのかもしれない。この辺りは今後本を読んで勉強していきたい。
 スマホのカバーガラスの割れが気になって仕方がなかった。1510、コジマ×ビックカメラ黒磯店。エクスペリアのガラスを買った。スマホのアクセサリーは大きな売り場面積を締めていた。今や立派な家電である。前から思っていたが、ソニーは機種名をスマホに印字すべきだ。アホじゃないか?
 15時半、ちょっと早いけど、帰ることにした。黒磯板室ICから東北道へ。1620、上河内SAで給油。1840、帰宅。
 カバーガラスを貼った。割れたカバーはスマホからうまく外れた。カバーの下の液晶ガラスは無傷でホッとした。液晶ガラスの表面を付属のシールでペタペタして埃を取った。画面の隅に埃が溜まってたのは無視した。新しいガラスを貼ると、端っこで少し埃が入った。気になるけど、仕方がない。直したいけども、それはまた割れた時だ。どちらかと言えば、もう割れないで欲しい。
 那須はなかなかよかった。今まできちんと那須のことを理解してなかった。那須がこんなに面白いのなら、鬼怒川温泉や日光ももっと掘りようがあるのかもしれない。そして、栃木のライバル群馬も。無理にでも旅行に出てよかった。