あっけし望洋台。起床は440。とても静かでぐっすり眠れた。トイレにも行かなかった。さすがに道東は寒かった。外はまだ昨日からの小雨が降っていた。本当はきれいなはずの眺望は靄っていて何も見えなかった。道東のイメージと言えば霧で合ってるけども、晴れて欲しかったなあ。また来いということかもしれない。朝食後、昨日のブログを修正して髭剃り。
620、出発。今日は別寒辺牛湿原を見てから一度厚岸に戻って、海沿いに根室を目指す予定だった。釧路から東を走るのは初めてであり、今回の旅の目的の一つだった。
640、別寒辺牛湿原。ここには根室線が走っていて、根室線からは何回も見たことがあった。道路から見ると、根室線が邪魔をしていたorz。湿原は緑の原っぱのようで、所々水面がないと写真的には退屈だった。
Uターンして厚岸の町に戻った。厚岸の町は厚岸湖が海と繋がってる部分の対岸も拓けていた。対岸に渡るためには厚岸大橋を渡る必要があった。厚岸大橋の手前には11年前に訪れた市場があった。あの時は駅から歩いて遠かったのを覚えている。橋は赤くて立派だった。対岸に渡ると厚岸はこちらの方がメインであることを知った。
7時、国泰寺。1804年に江戸幕府がアイヌに日本の文化を浸透させるために作った。この時作った寺を蝦夷三官寺と呼んだ(残りは伊達と様似)。境内は緑に囲まれてひっそりとしていた。本殿は比較的新しかった。「厚岸会所跡」の石碑があったことから、ここは厚岸の中心だったのかもしれない。
710、厚岸神社。国泰寺の隣にあった。江戸時代に蝦夷を探検した近藤重蔵が建てた。近藤の資料が説明板で紹介されていて、厚岸は重要な場所であったと書かれていた。
750、愛冠岬。岬周辺は北大の施設になっていた。岬は草原になっていて、その中を轍が伸びていた。ここには鹿がいた。北大の腕章をつけた学生が口笛で鹿に合図を送っていた。北大生は3人くらいいて、あちこちで鹿を相手にしていた。何をしてたんだろう?岬の先っぽには鐘が設置されていた。愛冠に因んでるんだろうけど、ああいうのは興醒めだから止めて欲しいな。眺望は雨だからあんまりいいとは言えなかった。
825、ピリカウタ展望台。車の時点で靄っていて景色は見えなかった。展望台に上がるまでもなかった。
835、末広海岸。海岸が見渡せた。それだけ。
845、原生花園あやめ々原。岬にはあやめが生えてるようだったが、そもそも季節外れだった。草原は柵で区切られていて遊歩道が伸びていた。遠くにはいくつか展望台があった。展望台まで行ったが、雨でいまいちの上に何度も崖を見てきて飽きつつあるというのもあった。草原の中に少しだけ紫色の花があった。あとでツリガネニンジンだと思われた。
940、琵琶瀬展望台。今回楽しみにしてた場所だった。ここからは霧多布湿原や海岸の眺望が360度のパノラマで楽しめるはずだったが、靄っていて何にも見えなかった(死)。晴れていた時の写真が空しさに一層拍車をかけた。こんな悲惨な状況の中でも売店が空いてたが、私以外に訪れている客はいなかった。
950、琵琶瀬木道。霧多布湿原の中にまっすぐな木道がどこまでも延びていた。先に進んでもこれ以上の情報はないと考えて、写真を撮っただけにした。
湿原の中を貫く道路を進んだ。右も左も湿原で、釧路湿原よりも凄いのではないかと思った。
1005、霧多布湿原センター。湿原についての簡単な説明があった。湿原って花を説明するくらいしかないんだよなあ。子供が遊ぶ部屋があり、公民館的な役割を果てしているのかもしれない。2階の喫茶スペースからは湿原が見渡せた。靄っていたけど。
さっきの湿原を貫く道路はMGロードと言うようだった。車を停めて写真を撮った。
1040、アゼチの岬展望台。霧多布半島の南に突き出ていた。途中でたくさんの牛が放牧されていた。駐車場から先は徒歩。丘の中を轍が延びていた。先っぽの景色は靄っていて何も見えなかった。ここにも晴天の時の写真があり、残念さが増幅した。
11時、霧多布岬駐車場。今回の旅では霧多布岬に行くことを楽しみにしていた。14年前に見た素晴らしい眺望をもう一度味わいたかった。でも、今日の最初からそれは叶わないこともわかっていた。それでも敗戦処理のピッチャーのように最後まで見届ける義務があった。これも霧多布岬の一面である。さて、駐車場は2箇所あり、先っぽに近い方を選んだ。風景には見覚えがなかった。もしかすると、「えとぴりか村」から歩いて行ったから遠い方しか行かなかったのかな?とりあえず先っぽに向かった。
先っぽは何段も先に行けるようになっていた。1105、湯沸岬灯台を通り過ぎた。どこまでも行っても靄っていた。どん詰まりに到達した時にようやく記憶が甦った。岩礁の形を覚えていた。あそこにエトピリカが生息していると思ったはず。岩礁の上にはなぜかエトピリカの模型が置いてあった。模型以外に鳥がいたけど、エトピリカかどうかはよく見てなかった。何してたんだか?景色は靄っていたけど、かつて訪れていたことを思い出せたのはよかった。
先っぽから遠い方の駐車場に移動した。前に写真を撮ったと思われる場所に行った。なんかイメージと違っていた。もしかすると、違う場所だったかもしれない。2つの駐車場を結ぶ遊歩道のどこかなのかも?でも、こんなに靄っていては探すのもめんどくさかった。お腹も減ったし撤収することにした。
1155、お食事処ひらの。ネットで一番の評価だった。車が溢れていて路駐した。2組待ち。1220、入店。海鮮丼セット。セットでは温かいそばがついて、3310円。1245、ようやくありつけた。温かいそばを頼んだのは失敗した。伸びるから先に食べなきゃいけなかった。でも、このそばは意外にもおいしかった。むしろ海鮮丼の方がアレっという感じ。特にウニが残念。まったく味がしなかった。旬を過ぎてるのに無理に入れるから。
これからどこに行くか考えた。浜中町がモンキーパンチを推してることをすっかり忘れていた。調べると施設が出てきた。でも、月曜日は休みという無慈悲な表示。いや、お盆だからやってるはず。
1325、モンキーパンチコレクション。読み通り開いていた。モンキーパンチはルパン三世の産みの親であり、浜中町出身だった。私は直接漫画を読んだことはなかったが、アニメはたくさん見た。国民的アニメの一つである。万人がワクワクするストーリー。パッとしなかった一日が突然ワクワクし始めた。すべてはこの伏線だったのかと。
展示にはモンキーパンチの初期作品からのリストや、貴重な初期作品のコマ、ルパン三世の書き下ろしイラストなどがあった。モンキーパンチのイラストは、大袈裟でコミカルでメリハリの利いたものだった。それが独特の世界観を産み出していた。モンキーパンチはプロジェクトXに出てきたことがあった。浜中町で医療に従事した道下医師の助手をしていた。その後、上京して成功を収めたことが紹介されたいた。
1350、郷土資料展示室。モンキーパンチコレクションと同じ建物にあった。霧多布は昆布と酪農の町であった。「えとぴりか村」のAさんが昆布漁の手伝いをしていたことを思い出した。酪農のきっかけは作物が育たなかったという苦難の歴史によるものだった。霧多布は津波被害の多い町でもあった。高台には数%が作られており、いざとなったら避難所にもなるようになっていた。
海沿いを根室方面に向かうことにした。1425、霧多布SSで給油した。
なぎさのドライブウェイ(南入口)。昨年、能登で砂浜を走れなかったので、リベンジと行きたかったが、道が汚いしスタックしたら最悪なので止めておいた。
霧多布にはかつてムツゴロウ動物王国があった。ムツゴロウのTV番組は私が高校生辺りの頃に高視聴率をバンバン叩き出していた。私は中学時代に畑正憲の本を読んでいて、そこには畑正憲が霧多布の無人島に住んでた時の話しが載っていた。このようにムツゴロウは霧多布に縁のある人だった。ムツゴロウ動物王国がどこにあったのかネットで探した。しかし、手がかりがほとんどなかった。道道から外れてダート道になることはわかった。一回アタックして諦めかけた。しかし、ここまで来て諦めるとこの先ずっと傷になる。粘り強く調べて、二回目のアタック。ようやくたどり着いた。
1505、旧ムツゴロウ動物王国(現在はLand Egde)。門より先にはコーンで通せんぼされていて進めなくなっていた。今はムツゴロウとは関係のない人に買われたらしかった。近くで数頭の馬が放し飼いにされていた。この場所までテレビ局の人が来るのは大変だったろう。
1510、幌戸沼。靄っていて面白くなかった。
1545、フレシマ湿原。道道から外れて2kmのダート道。なんでこんなとこに来てしまったのか?靄っていて何も見えなかった。
落石のところで小さな屋根もないようなガソリンスタンドが出てきた。14年前「カジカの宿」から駅に向かう時にトイレを借りたところだった。まだ営業してたことが嬉しかった。そのまま落石岬の方に行くと「カジカの宿」があった。バイクから荷物を下ろしてる人がいた。
1610、落石岬入口。落石岬にも14年前に訪れていた。数ある北海道のエピソードの中でも、霧多布と並んで大きな位置を占めている。因みに、落石岬も霧多布も同日の出来事だった。今日はその時と逆の順番となった。さて、岬までの道はあまり記憶になかった。「カジカの宿」からは相当遠かった。よくここまで歩いたものだ。入口もまた記憶とは違っていた。入口には車が3台停まっていた。こんな靄っているのになあ。入口を少し入ったところで、すぐに女性2人組とすれ違った。
1615、落石無線送信所跡。四角い廃墟が出てきた。入口らしき扉の上には「R」と書かれていた。ここは芸術家のアトリエとなってるようだった。
ここで道が二股に分かれた。どちらに行けばいいかわからなかった。過去のブログを見て、轍の小さかった落石灯台の方へ進んだ。危ない危ない。やがて森にぶつかるところで木道が現れた。木道の前にはものものしいくらいの看板があった。どうやら木道の一部は朽ちてるらしかった。前回は新しかったからなあ。木道はまっすぐ森を抜けていた。周りの足元は湿原だった。木道の先から熊鈴の音が聞こえてきた。霧の中から一組の夫婦が現れてすれ違った。視界が広がったところで木道が途切れた。先は草原になっていてそのまま霧に紛れていた。そこには「落石岬」の立て札が立っていた。草原の轍を進むと、霧の中から眼レフを持った男性が出てきた。これで3組目。岬には私だけとなった。
轍を進んでいくと霧の中から徐々に灯台が現れた。こんなんあったっけ?記憶にはまったくなかった。崖を見に行きたかったが、轍ではなく頼りない踏み跡しかなくてあまり動きまわりたくなかった。それでも頑張って踏み跡をトレースしながら崖らしきところまで歩いた。しかし、そこは崖ではなくてもっと先まで行かなければいけないようだった。先は靄っていてよくわからなかった。どうせ靄っているだろうと断念した。帰り際に別の道が崖の側まで続いてたので行ってみた。崖の下が見えた。波が激しく打ちつけて砕け散っていた。
前回訪れた時はずいぶん感動して「大自然を前にしたら普段の悩みが小さいものに思えた」なんて書いていたが、今回は何とも思わなかった。散々似たようなところを回ったし、さらに靄っていることがわかってたし。14年の時の流れは残酷だった。
17時半、長節湖。靄っていたので車からも降りなかった。
1745、花咲灯台と車石。17年ぶり2回目。ここは根室の観光バスツアーで来たことがあった。車石自体は大したことはないけど、一応確認しにきた。すっかり灯台があったことを忘れていた。車石の見覚えはあった。でも、車石の一体何が珍しいかはよくわからなかった。崖下で激しく砕け散る波がド迫力だった。
1810、根室線東根室駅。日本の鉄道最東端の駅。電車では通ったことはあるが、車で来るのは初めてだった。住宅地の中にひっそりとあった。駅舎がなかったのが意外だった。旅人のバイクが一台来た。考えることは皆同じだ。
1825、根室港駅跡。かつて根室駅から貨物線が延びていた。新しい技と「歩鉄の達人」で場所を特定した。港のすぐ横だった。戦前は千島とやり取りしてたらしい。
1840、セイコーマートたぼ琴平店。明日の朝食用のパンとガリガリ君と緑茶を買った。
1910、寳湯。地元の銭湯。大人気で路駐が溢れていた。やっぱり根室は人気あるなあ。中はそこそこ古かった。
1940、セブンイレブン光洋町店。麦茶とコーラを買った。
1950、明治公園第二駐車場。トイレで調べたら出てきた。たくさんのキャンピングカーが停まっていたので信用できるだろう。今日はここで車中泊にする。ブログを打った。
今日は一日中靄っていて残念だった。でも、この辺りはもともと霧が多いことでも知られている。だから普段の姿が見られただけに過ぎない。今回が運が悪かったのではなく、前回が運が良すぎたのだろう。また狩勝峠のようにいつかリベンジを果たせばいいさ。それにしても、昨年の北海道もずっと天候が悪かったし、今回も昨日からぐずついている。広尾の博物館の人が「昔はこんなにじめっとしてなくて、からっとしてたんだけど」と言ってたのが気になる。北海道に梅雨はなかったはずだが、ここんとこ梅雨みたいになってるのではないか?明日は晴れて欲しいなあ。