びーの独り言

どこいくの?どっか。

2023/01/02(月)祝「日南」

 起床は715。深夜210頃、車にドシンと振動が来て「大丈夫?」という声が聞こえた。騒いでる連中がぶつかったみたいだった。ふざけんなって感じだった。眠りを妨げられたのはもちろんだけど、車に傷が入ってないかが心配だった。ドアパンチを食らったのかもしれないし、何かイタズラされたのかもしれない。タイヤがパンクしてたらどうしよう?遠くで奴らの笑い声がした。
 そのまま眠ることも出来ず、外に出ようとしたら、目の前を犯人だと思われる4人が通り過ぎた。2人は子供のように見えた?そいつらは隣の黒い乗用車に乗り込んだ。隣か?私はトイレに行った。するとその隙にそいつらはいなくなってた。スマホで照らしながら、車の周りをチェックした。一応傷はなさそうだったが、なぜか給油口の蓋が開いていた。もしかして、ガソリンを盗まれた?それとも何か異物でも入れられた?しかし、それ以上に出来ることはなく、寝るしかなかった。
 起きてすぐに車を確認したけど、見た感じでは何もなかった。これでだいぶ安心した。それにしても、悪質だった。騒ぐ方がまだマシに思えるくらいだった。気分の悪い朝だった。
 起きたら皆が海に向かって写真を撮っていた。日が昇って光の道を作っていた。よく見ると海岸は鬼の洗濯板状態だった。南国ムード満天のフェニックスが生えていた。植生が変わると遠くに来たことを実感できる。
 朝食は昨日の極楽湯で買ったチーズパン。とてもおいしかった。ブログを修正して、9時に出発。
 少し北に戻って青島を目指した。青島へはすぐだった。人気観光地だけあって、無料駐車場はないようだった。910、コインパーキングは500円。
 少し歩いただけで南の島みたいな景色になった。どこかのホテルにでも迷い込んだのかと思った。砂浜に出ると、遠くまで見渡せる青い海と白い砂浜が続いていた。まるで紀伊半島の三重側の海岸のようだった。南の方の砂浜の先には砂州が伸びていて、その先には青島があった。砂州の上にはコンクリート橋がかかっていて、たくさんの人が歩いていた。コンクリート橋の周りは鬼の洗濯板となっていた。これは正式には砂岩泥岩互層と言って、硬い層と柔らかい層が海底にて交互に積み重なり、隆起したものだった。
 青島には青島神社があった。砂浜には朱色の鳥居が立っていた。神門を潜ると拝殿だった。拝殿の右には小さな門があった。中は亜熱帯のジャングルのようだった。ビロウという植物の林だそう。ジャングルの先には祠があった。元宮と言うらしかった。ジャングルの中にある祠はインパクトがあった。
 かつては新婚旅行の定番と言われた青島は、確かに美しかったが、観光は一瞬だった。10時、出発。1005、国道沿いにある青島パーキング。青島の俯瞰写真が撮りたかった。でも、あんまりだった。ドローンじゃないと無理か?1020、出発。
 昨晩道の駅フェニックスに行くために通った道は堀切峠と言うらしかった。改めて通ってみると、素晴らしい眺望だった。遠くまで海が見渡せて、海岸には鬼の洗濯板、丘にはフェニックスが生えていた。宮崎のイメージのすべてをここに凝縮したかのようだった。ちょうどレミオロメンの「Stand By Me」がかかって、テンションはMaxだった。
 日南海岸を左手に見ながら南下。鵜戸神宮を目指した。鵜戸神宮は地図で見ると半島の先っぽの寂しそうな場所にあった。鵜戸神宮の手前の道は初詣客で大渋滞していた。1120、ようやく駐車場。30分かかった。
 鵜戸神宮神武天皇の父親を祀っていた。日向には日本書紀由来の神社がたくさんあるが、今回、とてもすべてに行くことはできなかった。もう少し勉強して、また行く機会があればいいな。
 鵜戸神宮の参道は海に面した崖の上にあり、海岸の見晴らしが美しかった。まるで展望台のような場所だった。本殿に行くには崖を階段で降りる必要があった。たくさんの人が行列を作っていた。本殿は海蝕洞の中にあったので、崖の上からは見えなかった。今回は本殿が見たかったので行列に並んだ。
 本殿は原始人が住んでそうな崖に空いた窪みに収まっていた。場所が場所だけに威厳があるような気がした。普通と違う立地や到達困難性から、インパクトは絶大だった。いい思い出になるだろう。1225、出発。
 飫肥城に向かった。飫肥城のことはよく会社の人から聞かされていて、ずっと気になっていた。百名城にも選ばれてたはず。
 1250、飫肥城駐車場。元々、飫肥という地名すら知らなかったのに、こんなに城が大きいとは。期待感が膨らんだ。
 飫肥城下町案内処で情報収集。ボランティアのおじいさんとおばあさんといろいろ話した。
 1315、おび天「蔵」。正月なのに開いていた。かつおめしと、おび天盛り合わせにした。かつおめしはご飯にかつおの刺身を乗せてお茶漬けにしたもの。宇和島の鯛めしと近いと言われている日向めしとはこれか?おび天は名物でよく話に出てきた。
 かつおめしはまあまあだった。ちょっとかつおの臭みが気になった。元々漁師メシなので細かいことは気にしないのかも?おび天はさつま揚げの風味豊かな感じだった。とてもあまくてうま味が凝縮されていてうまかった。
 飫肥城の大手門はとても立派だった。中に入ると虎口となっており、立派な石垣があった。これらはどうやら平成の時に再現事業が行われたようだった。日南市の本気が伝わってきた。
 1350、松尾の丸。飫肥城に昔存在していた建物を再現した。かなり大きな建物だった。説明が素晴らしく、日南市の力の入れようが伝わってきた。飫肥城は島津家が支配していたが、途中から伊東家が奪った。伊東家は伊豆の伊東である。そこから島津と伊東の対立が始まった。結局は伊東家が5万石を得て、明治まで存続した。
 1440、歴史資料館。ここもまた説明が素晴らしかった。日南には凄腕の職員がいるに違いない。
 1515、豫章館。明治になってお殿様が住んだ屋敷。ただ家と庭があるだけであっさりしてた。
 1525、小村記念館。ポーツマス条約を結んだ小村寿太郎飫肥出身だった。ポーツマス条約とは、日露戦争講和条約のこと。ロシアから賠償金を得られなかったことで批判的に見られている。しかし、実際はかなり日本に有利な条件を引き出したとのこと。このあたりの真相はちゃんと調べてみたい。1625、撤収。
 城下町を歩いた。ここは重要伝統的建造物群保存地区だった。武家屋敷がかなり雰囲気のよい街並みを形成していた。まるで萩や丹波篠山のようだった。
 田ノ上八幡神社。長い階段があり、由緒のありそうな神社だったが、参拝客は誰もいなかった。
 1720、出発。日南市に移動した。宮崎から飫肥まで何にもなかったが、日南はそこそこ大きな街だった。堀川運河を見に行った。石積みのアーチ橋が架かっていた。路駐して銭湯を探した。近くの2箇所に電話したが、やってなかった。3箇所目の串間でようやく開いていた。串間までは30kmあった。日南から串間までの海沿いの景色を楽しみたかったのだが、今回はランニングを優先している。串間へは海沿いではなく陸地の道をショートカットした。ここは日南線が通っていた。
 1845、串間温泉いこいの里。ジャージに着替えて走ろうとしたが、左膝の裏や踵が痛くてすぐに断念した。おそらくこの旅行中に走るのは無理だろう。温泉は500円。お湯はぬるぬるしていた。パンを売ってたので2個買った。極楽湯といい、温泉でパンを売ってるのはなぜだろう?私のようなものがいるからかな?2020、出発。
 やっぱり日南から串間までの海が見たいので北上して日南の近くの道の駅まで戻ることにした。さっきの内陸の道を通るのはつまらなかったので、海沿いの道を走った。海は漆黒の闇であるのかないのかわからなかった。他の車はまったく走ってなかった。
 2040、トイレがあったのでパーキングに駐車した。恋ヶ浦と言うようだった。狭いスペースで絶対誰も来ないだろうと思ったら、すぐにピンポイントで2台やって来てしんじられなかった。車の外にウェットスーツをかけてたことからサーファーだと思われた。どうやらここはサーフィンの場所だったようだ。私はその人たちと過ごすのがイヤだったので、北上を再開した。
 真っ暗のぐねぐねでアップダウンがある狭い道をひたすらハイビームで走った。ハンドル操作を間違えば、ガードレールを突き破って海に落ちるかもしれない。なんか九州に来て真っ暗な道ばっかり走ってるような?
 道の駅なんごうには、あまり車は停まってなかった。海沿いでも不人気なところはあるんだな。驚くほど静かだった。2220に、街頭の灯りが消えた。今夜はよく眠れそうだ。
 今日も頑張った。青島と飫肥城で満点かと。明日で折り返しなので、帰りのこともそろそろ考えないとなあ。