びーの独り言

どこいくの?どっか。

2022/09/19(月)祝「只見」

 起床は520。窓を開けてても暑かった。615、出発。今日は頑張って只見を狙った。
 関越道で新潟西ICから中之島見附IC下車。この区間、昨日も通ったけど、ひたすらまっすぐ。しかも、余計な看板が少なくて、走ってて気持ちがよかった。650、セブンイレブンで朝食。715、再出発。
 ナビは国道290号線を示していた。栃尾の看板が出たけど、栃尾って山の中なの?
 国道252号線に入ると、只見線が見えた。755、道の駅入広瀬。トイレ休憩。
 ここからは只見線とのランデブーだった。只見線上越線小出駅から会津若松駅を結んでいて、秘境路線として有名である。輸送密度が廃止基準を満たしている只見線が廃止を免がれているのは、並行道路が冬季に閉鎖されるためであった。でも、この先の只見から越後川口の間は11年間も不通になっていた。端で見ていても廃止もやむなしかと思っていたら、今度復活するらしい。国道から見ると只見線が鉄橋やトンネルを使ってまっすぐ貫くのに対して、国道はぐねぐねのアップダウンだった。使われない鉄道がまっすぐで、使われる道路がぐねぐねなのが不思議だった。只見線は森の中を通っていて、これまで探索した廃線とほとんど変わらなかった。北海道でも思ったが、現役線だからと言って、残ってるのはたまたま運が良かっただけなのかもしれない。近い将来に災害があると今度こそ廃線になるかもしれない。そう考えると只見線は未来の廃線であり、今のうちに写真に納めておこうかとも考えたが、あまりにも鉄橋やスノーシェッドなどの構造物が多いために諦めた。
 六十里越となった。凄い山越えだということは覚悟していたが、私が経験した中でも一番凄い山越えだった。国道は只見線に別れを告げて、猛烈に上り始めた。か細い両側二車線道路がひたすらぐねぐねしながら山の中腹に取りついて上って行った。途中、何ヵ所もスノーシェッドがあった。スノーシェッドは上から何かが降って来そうで不安な気持ちにさせる。この国道には襟裳の黄金道路よりも余程金がかかっていると思った。ここまで対向車はまったく来なかった。車ですら通らない道。それとも、この先通行止めとかないよな?
 8時半、六十里越トンネル。ほとんど山の頂上みたいなところを申し訳程度のトンネルで貫いていた。敢えて峠と言わないところに意味があるような気がした。サミットには大きな横長の石碑があり、車を停めて景色を見た。バグっていた。山の間は幅の広い川のようにダム湖が埋めて、延々と遠くまで見渡せた。三国峠の景色は凄いと思ったけど、ここもそれに勝るとも劣らぬレベルだった。石碑には田中角栄の名前が入っていて、妙に納得した。
 国道は高度を下げ始めた。850、只見線田子倉駅只見線は現役だけど、この駅は廃駅だった。秘境駅ということ知っていたが、あまりにも山奥なのでビックリした。人家はおろか人の気配すらまったくなかった。誰がこんな山奥で降りるのだろうか?こんなとこに駅を作ったこと自体が非難されてもいいレベル。駅舎は直方体のデカいコンテナのような形状で、一見すると駅には見えなかった。ただ、山の中にこのような構造物があることが異質だった。建物の左端には入口がついていて、封鎖されていた。中にはホームに降りる階段があった。こういうところに来ると、話で聞くだけでなく、実際に来てよかったと思う。
 しばらくすると、道端に三脚を構えた男性がいた。もしかしてと思うと、眼下には田野倉駅から続くと思われるスノーシェッドの出口があり、線路が敷いてあった。もうすぐ電車が来るのか?この区間はわずか1日3本往復しか通らなかった。道の先には 秋田ナンバーの車が停まっていた。秋田から来たのか?私はそのまま先に進んだが、やっぱり写真が撮りたくなって引き返した。現場に戻ると、もう一人バイクの男性も加わっていた。そこからすぐに電車の音が聞こえて、スノーシェッドから姿を表した。シャッターを連打した。秋田の男性も連打していた。ラッキーだった。「電車が来るかなと思って戻って来ました」と言ったが、返答に困ったのか無言で去っていった。
 910、田子倉ダム。重力コンクリート式の巨大ダム。展望レストランや遊覧船もあり観光スポットとして整備されていたが、時間が早いせいか他には一組しかいなかった。堤体の上からダム湖を眺めると、山間に湖面は青々としていて静かに水を湛えていた。堤体下流側は遠くまで見渡せた。川の先には鉄橋があり、その先は湖のようになっていた。ジオラマのような景色だった。
 940、只見ダム。ロックフィル型。上流側には田野倉ダムの堤体が見えた。下流側は浚渫してるのかあまり景色は面白くなかった。
 只見は福島県だが、新潟との繋がりの方が強いと言われていた。でも、今回六十里越を通ってみて、とても新潟との繋がりがあるとは思えなかった。それくらい六十里越は強烈だった。
 只見の街に入ると、そこらじゅうに「只見線10/1開通」との上りやポスターや垂れ幕があった。余所者が未来の廃線などと思っても、地元には待望の開通なんだろう。
 955、只見線只見駅。普段現役の駅はやらないけど、こんなに到達困難なら話は別だった。まず駅員がいることに驚いた。たった3往復なのに。保安も兼ねてるのかな?
 駅前の真新しい観光案内所でパンフレットを入手した。只見線の休止している区間にある鉄橋の撮影ポイントが記載されていた。立派な観光資源なんだな?
 只見にはガソリンスタンドが二軒あった。そのうちの一軒で給油したら、詰め所で談笑してた日焼けしたおじさんがゆっくりと出てきた。「レギュラー満タンカードで」と言うと、「見ての通り、ガッチャンなので」とメーターを指差した。昔懐かしいタイプのアナログのメーターだった。まだ使われていることに驚いた。おじさんはカードを持って詰め所に戻った。領収書はまさかの手書きだった。
 只見の街は栄えてるのは駅前だけで、あとは昭和の小さな街だった。只見線がなければ、注目もしなかっただろうし、只見線がなくなったら街の中心がなくなってしまうように思えた。
 只見駅からはずっと山の間を只見川が流れていて、只見線はそれに沿っていた。鉄橋を探しながら走った。途中で、三脚を構えていた2人がいた。ここには電車は走ってないはずだが、もしかして・・・。
 1020、叶津川橋梁。ガーター橋がぐるっと半周していて、珍しい構造の橋だった。近くの公民館に車を停めると、高台に撮影ポイントがあるとの看板があった。親切だなあ。高台からの眺めはよかった。撮り鉄が喜びそうなカーブだった。
 1050、塩沢の集落には河合継之助記念館があった。長岡とまったく同じ名前だった。2つ記念館があるのも珍しいが、名前がまったく同じなのも珍しかった。こちらの方が長岡よりもずっと早くにできた。塩沢は河合継之助の臨終の地だった。別に住んでたわけではなかった。展示は長岡よりも気合いが入っていて、只見での出来事を本当に細かく説明していた。戊辰戦争の頃は資料もたくさん残ってるからなあ。
 1210、出発。途中で駅をやらなかったのに気づいて後悔したが、そこまでの時間的体力的余裕もなかった。
 ふと横田の集落で只見線の方を見ると、踏切の赤いライトが点滅しているのが見えた。これは!すると、バックミラーに電車が見えた。うおおおお!
 車を飛ばして先を急いだ。撮影に適したポイントがないか探した。そのうちに国道は只見線から離れてしまった。また合流するのはわかっていたので、走っていると、国道の本名トンネルが現れた。確かここに鉄橋があったはず。トンネルを出たところに真新しい鉄橋があった。
 只見線はトンネルから出た後に鉄橋となっていた。鉄橋を渡ったところは砂利の広場になっていて、建設会社のトラックが数台停まっていて、エンジンがかかっていて人が乗っていた。トンネルから出る電車を撮影するには、トラックの側まで行かなければならなかった。一瞬は側まで行ったが、長居はできなかった。遠目に電車が来るのを待った。
 なかなか来ないので痺れを切らして、車に戻ろうとした時に、電車はやって来た。準備が出来ておらずパニックとなった。目の前を電車が通過するタイミングで動画を撮った。後で見返すと、0.5秒くらいしか撮れてなかったorz。
 諦めずに車で電車を追った。まだ鉄橋はあったはずだ。先を急いだ。しばらくしてから、道端に秋田ナンバーの車が停まっていた。お前か!見覚えのある男性が道端で三脚を構えていた。そして、その眼下には大きな鉄橋があった。まさにその瞬間、電車が鉄橋を渡った。私は通り過ぎる電車を車の中から見ていることしかできなかった。
 それでも諦めずに電車を追いかけた。ある場所でトンネルの側道が只見線に沿っていたので、側道に入って車を停めた。電車を狙うと、電車は来たけど、雑草が邪魔で電車の屋根しか見えなかった。電車が通り過ぎてから、後方を撮影すると電車は駅に停まった。来るまで先に進もうとすると、行き止まりとなっていて、Uターンする羽目になった。すると、秋田ナンバーの車が側道に入ってきた。なぜ?
 あとで駅は越後川口駅だということがわかった。その後、試運転の電車がどうなったのかは知らない。
 鉄橋をすべて撮影できたわけではないけれど、すっかり満足していた。そして腹も減って疲れ果てていて、先を急いだ。
 1340、柳津。訪問は2013年以来2回目。会津若松からレンタカーで来たことがあった。ここには虚空蔵菩薩があり、門前町を形成していた。その時の目的は岩井屋の栗饅頭だった。ここの饅頭は探偵ナイトスクープに出てきて、実際食べてみてとてもおいしかった。その後、岩井屋が火事で焼失したことを知ってショックを受けた。今はどうなっているだろうか?また前回は何とも思わなかった虚空蔵菩薩にも興味があった。
 商工会の無料駐車場に停めて歩いた。岩井屋のあった場所は違う建物になっていた。しかし、その向かいに岩井屋はあった。中も同じような雰囲気だった。先客が2組いて、大量に栗饅頭と粟饅頭を買って行った。私は2個ずつ買って、おばさんに一言断ってから店の中の机で食べることにした。すると、おばさんが冷えたお茶の容器を持ってきてくれた。机の上に乗っている紙コップは小さくて、見覚えがあった。粟饅頭の方がおいしかった記憶があったので粟饅頭から食べた。湯気が出てホカホカ、柔らかくておいしかった。栗饅頭には、中にまるごとの栗が一個入っていて、皮は黒砂糖が入っていた。こちらも好きな味だった。
 せっかくなのでおばさんに話しかけてみた。ナイトスクープの時は石田探偵で、サインがあったけど、火事で焼けてしまったとのこと。
 虚空蔵菩薩を見に行った。正式には円蔵寺といった。撫で牛という牛の座っている銅像やら石像がたくさんあった。その中に混じって、赤べこもいた。本堂は雰囲気があったが、虚空蔵菩薩秘仏なのか厨子の中っぽかった。
 14時半、出発。会津柳津駅に寄った。2回目。SLが置いてあった。前と同じでひっそりとしていた。駅としての活気や賑わいはなかった。
 只見から会津若松までの道のりを見ていると、新潟から只見に行くのは大変だが、只見から会津若松まで出るのも距離があり、しかも道はよくなかった。只見は陸の孤島だった。
 会津若松に入ると、目の前が開けて、稲穂が頭を垂れて金色に光っていた。
 1510、中田観音。ここは野口英世のお母さんがよくお参りをしたところだった。小さなお寺で門やお堂は雰囲気があった。門の前に潰れた二軒の旅館があった。昔はもっと賑わってたのかな?
 会津若松駅に向かい、1550、喜多方ラーメン来夢。ここは東横インに泊まった時に何度も来てた。久しぶりに食べると何か違う感じがした。味が少し濃くて浅いかな?
 1620、出発。帰ることにした。高速に乗る前に給油。175円は高かった。
 磐梯河東ICから磐越道。途中から東北道。1745、那須高原SA。1855、都賀西方PA。1950、蓮田SA。給油。2120、帰宅。ちょうど渋滞がなくなる時間だったが、それでも5時間かかった。くたくただった。
 只見線はまさかこんなに楽しくなるとは思わなかった。いろいろやり残したことがあるので、そのうち再訪したい。現役線をやるのも面白いかもしれない。