びーの独り言

どこいくの?どっか。

2022/09/18(日)「越後」

 三連休の二日目。起床は545。眠れなかった。窓を開けても風がないと暑かった。それから、気がついたら隣にキャンピングカーが停まっていて、一晩中エンジンをかけていてうるさかった。トラックもうるさいし、高速のSAで車中泊するのは止めといた方がよさそう。6時、出発。
 関越道を新潟方面へ向かった。早朝は車が少なくて走りやすかった。この辺りは両側に山が迫っていて、細長く平地が続いていた。小千谷IC下車。
 745、西小千谷駅国鉄魚沼線の終点。魚沼線は信濃川の左岸を信越本線来迎寺駅から西小千谷駅を結んでいた。信濃川の右岸に上越線ができてからは主役の座を奪われた。特に鉄道物件的にこの駅に来たいと思ったわけではないが、朝に時間があったので寄ってみた。
 駅跡にはお馴染みの郵便局があり、公園として整備されていた。駅舎が残っているかはわからなかったが、現役当時のホームが残されていた。駅名標は現役当時のものかわからなかったが、青いホーロー板は間違いなく本物だった。
 805、魚沼鉄道小千谷駅。魚沼線が国鉄に買収される前は西小千谷駅の場所ではなく、信濃川のそばにあった。私は小千谷に来るまでそのことを知らなかった。「歩鉄の達人」で駅跡には石碑があることを知った。その石碑は駐車場と民家の境界にひっそりと立っていて、鉄道マニアでも相当コアな人しか訪れないだろうと思われた。
 820、再び西小千谷駅。「歩鉄の達人」で見落としに気づいた。こういうのはちゃんと回収しておかないと、後々ずっと思いを引きずることになる。駅の先にレールが敷かれているのを発見した。危ないところだった。
 魚沼線の廃線跡は見所がないので、適当にトレースすることにした。途中で古い名刹っぽい寺があったので、寄り道した。840、潮音寺。門とお堂があった。すごくただ者ではない雰囲気があった。調べると江戸時代のよう。お堂の彫刻が見事だった。
 850、片貝駅。ここにも郵便局があったが、駅があったようには思えなかった。公園になっていて、花火の記念碑があった。長岡は花火で有名だもんな。
 9時、信越本線来迎寺駅。現役の駅。現役の駅は基本的にやらない。それは電車で訪れるべきだから。駅前はひっそりとしていた。
 長岡へ向かった。駅前の商店街には見覚えがあった。
 925、河合継之助記念館。今回、新潟に来たのはここが目的だった。河合継之助は戊辰戦争で長岡藩を率いて、新政府軍と戦った。一度は占領された長岡城を奪還したものの、左膝を撃ち抜かれて只見で亡くなった。戊辰戦争関連の資料館は少なくて、東北では黒歴史化しているように見えるが、長岡はきちんと後生に伝えようとしていることに好感が持てた。また河合継之助が長岡で尊敬を集めていることもわかった。
 10時、開館。私は知らなかったのだが、司馬遼太郎に取り上げられており「峠」という物語にまとめられていた。今、映画をやってるらしく、だからかお客さんが意外と多かった。河合継之助が二度の遊学を経て、長崎まで旅をしているとは思わなかった。旅人だったのか。型に囚われず実学優先のところも好感が持てた。そのため旧勢力との軋轢も多くあったようだ。戊辰戦争戦争時の古戦場まで紹介されており、いつか巡ってみたいと思った。
 長岡駅の駐車場に停めて駅ビルへ。1110、「小嶋屋」。開店10分後なのに満員になっていた。20分待って入店。へぎそばとタレカツ丼。調べると、この店はへぎそばの発祥とのこと。へぎそばはつなぎに布海苔という海藻を使っているらしい。つなぎがしっかりしていて、コシがあった。おいしかったけど、もう少しつゆがしっかりしないと、麺に負けてるような?タレカツ丼は、薄めのトンカツを甘辛醤油タレをくぐらせたもの。これまたタレが弱い。トンカツは普通にソースでいい。あれよりうまい食べ方があれば、その方法が普及しているはず。
 関越道の長岡ICから新潟方面へ向かい、磐越道へ。直線を120km/hでかっ飛ばしてたら、目の前に広がる青空は美しく、世界はどこまでも自由で希望に満ちていると思えた。この瞬間はすべてのものが私のものとなり、精神が解放されるようだった。新津西IC下車。
 1310、新津鉄道資料館。新津は信越本線羽越本線磐越西線が交わる鉄道の街である。外にグリーンの200系が置いてあって、いきなりテンションがマックスとなった。ここは説明が素晴らしくて、好感が持てた。子供の頃の自動券売機を見つけて大感動だった。1445、出発。
 1505、新発田に行く途中で瓢湖があった。白鳥で有名。平面的な湖で湖岸には蓮がたくさん生えていた。白鳥はシベリアの方から10月に飛んで来るそう。既に鴨の中に混じって2、3羽いた。本当に白鳥?
 新発田から赤谷線の終点の東赤谷駅を目指した。赤谷線は鉱山からの鉱石を運ぶための路線で、終点の東赤谷駅の手前でスイッチバックする構造だった。子供の頃から不思議に思っていた。
 上赤谷という集落を過ぎると、道はとんでもない山奥となった。しかし、グーグルマップではまだ奥に駅があるという。どこに路盤があるんだ?にわか信じがたかった。まるで十勝三股に行くときみたいだった。
 16時、東赤谷駅。山の中のY字路で建設現場のプレハブ小屋がある以外は人の気配は全くなかった。Y字の分岐部分が空き地になっていて、空き地の隅には丸太が積まれていた。私はグーグルマップを疑った。たまに全然違う場所が表示されることがあるからだった。しかし、画像検索したらあってるようだった。そもそも路盤はどこなのか?調べるとY字の右の外側にスイッチバックがあったようだった。草むらになっていて何にもわからなかった。よくもまあこんなとこまで鉄道を敷いたものだ。
 驚くべきは、ここからさらに先の鉱山まで別の鉄道が延びていたことだった。先に進むと、道路は崖に取りついており、鉄道がどこを走っていたのかは全くわからなかった。
 しばらくすると、スノーシェッドが現れた。東赤谷連続洞門と呼ばれていた。コンクリート製の馬蹄形のアーチがたくさん繋がったような構造をしており、あるHPで神殿の遺跡のようだと形容されていた。洞門は一台の車しか走れなかった。最初の洞門を潜ると、次は交互通行の信号があった。まるで敦賀と今庄の間の旧北陸本線だと思った。3つ目の洞門も交互通行で、信号のない4つ目が最後だった。
 すると立派な廃鉄橋が現れた。鉱山まで鉄道の遺構だった。これは予想してなかったので痺れた。鉄橋のおよそ人が到達できないようなところに落書きがあった。こんな山奥で誰があんなことしたんだ?
 先を進むと、ダムが見えてきた。そして、道路は九十九折りで高度を上げ始めた。鉱山跡はどこにも見ることができなかった。道路はそのままダムの上に到達した。
 1635、加治川治水ダム公園。山の中にも関わらず、先客が何組かいた。特に変わったところのない重力コンクリート式のダムだった。
 道を戻り、1710、赤谷駅。木造の駅舎が残っていた。公民館の看板があった。
 ここで赤谷線の探索は打ち切った。万代バスセンターのカレーに間に合わなくなるためだった。頑張って新潟駅方面へ。
 新潟駅の周りはさすがに栄えていた。一時期は日本で一番人口の多い街だった。今でも中核都市として日本海側を代表する都市である。コインパーキングに駐車。
 1820、万代バスセンターの立ち食いそば屋。自動券売機に並んでる人がいた。前の2人組がなかなか手間取っていて、何してるんだと思った。ようやく私の番になった。カレーは大盛があるのか。600円は安いなあ。いざ千円札を入れて、ボタンを押そうとしたら、赤い×。ヽ(;゚;Д;゚;; )ギャァァァ。カレー関係は全滅。赤谷線の探索を打ち切りコインパーキングも使ってこの結果。仕方なく、月見そば。カウンターに食券を出すと、食べ終わった後のカレー皿が積まれていた。後ろの2人組が「タッチの差だったね」と話してた。月見そばはいつものメトロ庵よりもおいしくなかった。このシチュエーションでは何を食べてもダメだったろう。その後に来た客は何人も主人に「カレー終わったんですか」と聞いていた。場にはただただ残念な空気が流れていた。
 疲れたので、早く休みたかった。19時半、道の駅新潟ふるさと村。新潟にすごく近いのに、不気味なほど真っ暗。車中泊にはピッタリ。しかし、風が昨日より生ぬるくて、苦戦の予感。
 今日は昨日の暗い気分を忘れて、いつもの旅行となった。なんだかんだ廃線跡探索がベースとなるわけで。寺がなくても、鉄道があるさ。