びーの独り言

どこいくの?どっか。

2021/10/10(日)「石部宿」

 11時スタート。湯の山温泉を目指した。国道1号線で土山の方へ。しかし、途中で雨が降ってきた。これでは鈴鹿スカイラインの眺望が楽しめない。途中で引き返した。道端の看板に「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と書いてあった。峠だと天気が悪いのかもな?
 同じ道を引き返すのは芸がないので、青看が示す甲賀駅の方に行った。草津線がどこだかわからないまま、山の中に突入した。なんか見覚えのある道だった。15年前に忍術村に行く時に通ったような?そのうち野洲川にぶつかり安心した。
 12時半過ぎに水口のサイゼリヤ。赤ん坊が2組ギャン泣きしててうるさかった。サイゼリヤって低価格だからか、金のなさそうな学生や品のない家族連れがいるよね。
 晴れてきたから土山に再チャレンジしたが、前方の鈴鹿の山は濃いもやがかかっており、明らかに雨模様だった。再度引き返した。
 3週間前に失敗した水口城資料館に行こうとしたが、城の前の橋に見覚えのあるバリケードがあったのでそのままスルー。緊急事態宣言が解除されても、開ける気がないらしい。
 城の一本隣の道に、少しだけ商店がある雰囲気のある通りがあった。さて、水口で気になっている場所に、15年前に見た廃墟となったアーケード商店街があった。アーケードとは言っても50mくらいの極めて短いものだった。当時、夜中に適当にジョギングしてたので、どこだったのかがわからなかった。もしかすると、雰囲気のある通りは廃墟商店街と関係があるかもしれない。探索してみることにした。
 通りは近江鉄道水口城南駅の北側に伸びていた。駅近くに工事中の怪しげな空間があったが、商店街跡との確証は得られなかった。なんせ15年前のことである。もう再開発されてるのかもしれなかった。線路の踏切の手前に伝統的建造物群保存地区によく置かれている交流館があった。昔の町並みが残っているからか?踏切を渡るとフォーク型の三叉路になった。適当にそのうち一つを選択。するといつものよく知ってる道に出た。
 帰ってからGoogleで地図を調べると、私が通った道は東海道であり、踏切の横にあった駅は水口石橋駅だった。水口城南駅の隣は水口駅だと思っていたので、水口石橋駅の存在自体知らなかった。Googleアースでアーケードを探したが見つからなかった。アーケードを検索すると、写真が出てきた。どうやら撤去されたようだった。でも、記憶とは違ってアーケードは長かった。また、どこにあったのかを調べたが、はっきりしなかった。撤去日もわからなかった。一度、徒歩で探索する必要があるな。
 15時、東海道石部宿歴史民俗資料館に行った。雨山運動公園という車でしか行けないような山の上にあった。3週間前、公園の門は閉まっていたが、今度は開いていた。資料館を外から見ると、昔の茅葺き屋根の家屋が見えた。しかし、閑散としていて、受付も閉まっていた。「チケットは管理事務所まで」となっていた。止めようかと一瞬思ったが、一応管理事務所に行ってみた。3人くらいの職員がいて驚いた。思わず「資料館やってますか」と言ってしまった。開いてるとのことだった。
 茅葺きの家屋は農家を移築したものだった。ほとんど説明はなかった。たくさんの農機具や調度品が無造作に置いてあった。ワイルドな展示だった。
 隣は商家で、その隣は茶屋で、そのまた隣は旅籠だった。農家と同じような感じだった。
 資料館の建物。入り口に大きな石碑があり、今は亡き「石部町」と書かれていた。おそらくかつて石部町肝いりの施設だったのだろう。建物は立派だったが、長年使ってないような埃臭さがあった。
 石部宿は東海道51番目の宿場町で、京都から36km離れていることから、最初に泊まる宿場町ということだった。明治元年明治天皇が東京から京都に帰ってくる際に本陣に宿泊したとのこと。その時の総勢がなんと3200人で、その人数が分散して宿泊したとのこと。当時、石部宿には63軒の旅籠があった。今からは想像がつかない。宿泊者の中には大久保利通大隈重信の名前もあった。
 宿場町の構造は今までも何度か勉強する機会があったが、ここの資料館はとても詳しくてマニアックだった。ほとんど需要はないと思えるが、強い郷土愛を感じた。この辺りには、草津、水口、土山があることから、東海道を徹底的に回ってみるのも面白いかもしれない。
 今日は三週間前と同じでで撮れ高が悪かったが、最後になんとか挽回できた。東海道に興味が出てきたのがよかった。