びーの独り言

どこいくの?どっか。

2018/06/09(土)「敦賀」

 今日の探索はつい最近思いついたものだった。いつまで経っても腑に落ちずどこか落ち着かなかった。起床は5時15分。とりあえず雨は止んでいた。6時過ぎに出発。
 大阪駅で下車。初めて11番ホームを使った。いつも視界の先にあった特急専用ホーム。少し優越感があった。
 7時ちょうどの特急サンダーバード3号。サンダーバードに乗るのは2回目。敦賀くらいで使う必要があるのかとも思わなくもない。しかも始発なのに指定。だいぶ杜撰になっている。高槻に止まるのがびっくりした。これじゃ新快速と変わらないじゃないか。そして車内販売がないとのアナウンス。急に特急にしたのは失敗だったという考えが立ち上がった。料金に見合うサービスかどうかかなり疑問。
 0820敦賀駅着。観光案内所に行くと、きれいなお姉さんが要望を聞いてきた。「ちょっと大きい地図ないですか」「どこでしょうか」「木ノ本から今庄までが載ってれば。廃線を巡ります」。するとちょうどいい地図が出てきた。さらに廃線巡り専用の冊子まで。素晴らしい観光案内所だった。
 9時前鯖寿司を買ってからレンタカー屋へ。駅レンはオリックスだった。車はマーチ。注意事項とかの説明はほとんどなくあっけないくらいすぐに借りれた。運転は昨年のGW以来だった。怖さはあったが、慣れるのもすぐだった。コンビニで鯖寿司を食べて探索スタート。
 今回は車での廃線探索だった。過去に車での探索は何回もやっているが、いつも路盤を見失い、終着駅だけ行くという感じだった。今回はちゃんと予習をした。
 探索の前半は敦賀-今庄の北陸本線旧線だった。この区間は在来線最長の北陸トンネルにより切り替えられた。行程は30km弱ありとても歩くことはできない。12本のトンネルのほとんどが残っているらしい。
 線路沿いを北西に向かうと線路から道路が離れ出した。これが廃線跡だった。道路は廃線跡を拡幅したもので2車線あった。廃線跡というより普通の道路だった。道路は緑の山の間を進んだ。
 すると道路脇にトンネルが開口していた。樫曲トンネルだった。交通量が多く路駐しにくかった。トンネルはレンガ巻きの古いもので、武田尾で見たのと同じ感じだった。傍らには説明の看板が立てられ、中には照明があり、整備されている印象。出口の先には道路トンネルがあり、鉄道トンネルが拡幅されたと思われた。
 廃線跡の道路を進むと新保の集落がありしばらくすると駅跡があった。ここには説明の看板と記念碑があった。山あいに少し広いスペースが広がっていたが、現役当時を想像することはできなかった。
 やがて廃線跡は交通量の多い道路から外れ、誰も入ってこなさそうな小さな道路に変わった。小さな道路は緑の中を突堤で延びていた。これが北陸本線の路盤であることは明らかだった。私は感動を独り占めしていた。
 しばらく進むと葉原トンネルが現れた。見た目はレンガ巻き。1車線の交互通行だが、1km弱の長さがあった。車から写真を撮ってたら信号が青に変わって、慌てて動画を撮影。ネットの動画を見たことはあるが、まさか自分でやるとは。トンネルは暗くて湿っていた。早く出たくて一気に飛ばした。
 その後いくつも同じようなトンネルが現れた。だんだん車を止めて写真を撮るのがめんどくさくなってきた。
 杉津駅跡が北陸自動車道の上りパーキングになってるはずだったが、どこかよくわからなかった。帰りに探すことにした。
 再びいくつかのトンネルを越えると、やがて私が一番心配していたトンネルにたどりついた。山中トンネル。1km以上ありながら信号がない。途中で対向車が来たら確実に死ねる。ただこの道ではまだ一台の車にも出会ってなかった。行けるんとちゃうか?対向車がいるかどうかはよくわからなかったが、突っ込んでみた。中は霧が出ててライトの光は分散した。対向車のライトがあっても見えなさそうだった。出口が見えるまでやけに長く感じられた。
 トンネルを出たところは山中信号所跡だった。トンネルの隣にはもう一つトンネルが開口していて、待避線になっていた。少し進むと明確なスイッチバック跡が現れた。こんな山の中の狭い場所によくこんな施設を作ったもんだ。
 信号所を境に勾配は下りに転じた。やがて大桐駅跡が現れた。大桐には説明の看板、駅名標のレプリカとともにホーム跡が残されていた。新保駅と同じでスペースはあるが、当時の姿は想像しにくかった。
 先に進むと現役の北陸本線にぶつかった。それはこの旧線が終わったことを示すものだった。ここで折り返した。
 先送りにした杉津駅跡を探した。杉津駅は景色が素晴らしいことで有名な場所だったとのこと。予習ではパーキングに入れるようだったが、どこかわからなかった。なんとかパーキングの裏手を見つけ車を止めてパーキングに侵入した。説明の看板があったもののどこから見てもパーキングであり、駅跡という感じはまったくなかった。海の方を眺めたが、ほんの少し海が見えるだけだった。
 敦賀駅付近に戻ったのは12時半頃だった。そのまま後半の探索に進んだ。後半は敦賀から南に進んだ疋田から木ノ本までの旧柳ヶ瀬線だった。これも元々は北陸本線だった。やはり交通の難所だったために付け替えられた。
 国道8号線をしばらく南に進むと疋田の集落が現れた。この辺りで旧線は分岐しており疋田駅跡があった。予習の甲斐があってすぐに見つかった。手がかりなしでは絶対このホーム跡は見つけられなかっただろう。
 そのまま国道8号を進んだ。旧線跡は拡幅されて飲み込まれたらしい。3km進んで県道に入った。ここも県道に飲み込まれていて、廃線の雰囲気は感じられなかった。刀根の集落を過ぎると拡幅されたトンネルが現れた。その先に小刀根トンネルがあった。
 小刀根トンネルは日本人の手で掘られた鉄道トンネルとしては2つ目だった。因みに1つ目は先週の逢坂山トンネルである。鉄道黎明期、神戸から大津まで繋げた後、琵琶湖の水運で長浜を結び、長浜から敦賀港まで線路が敷かれた。これは日本で5例目の鉄道敷設だった。
 先に進むと沿線最大の遺構である柳ヶ瀬トンネルが現れた。これも1km以上あり交互通行だった。散々トンネルを見てきたのでほとんど心は動かなかった。
 その後も拡幅された道路が続いた。いかにも廃線跡といった緩やかな勾配だった。柳ヶ瀬駅跡はバス停になっていてまったく痕跡は残ってなかった。中ノ郷駅には駅名標のレプリカがあった。そのまま進むと道路は現北陸本線にぶつかって終了した。
 敦賀に戻り敦賀港線を探索した。まだレールが残っていた。レールが残ってるとちょっと面白くなく。車なのでトレースではなく、適当に何ヵ所かで写真を撮るに留めた。終点敦賀港駅はオフレールステーションになっていて、貨物用コンテナが並んでいた。
 駐車場に車を止めて、赤レンガ倉庫の横を通り、旧敦賀港駅舎と敦賀ムゼウムに行った。かつて敦賀港はウラジオストクと航路で結ばれ、シベリア鉄道でヨーロッパまで行くことができた。当時もっとも早くヨーロッパに行く方法だった。敦賀港で有名なのは、リトアニア領事館で発行された通過ビザでユダヤ人6000人が上陸したエピソードだろう。これは命のビザと呼ばれていて語り継がれている。
 17時過ぎレンタカーを返却した。「東横イン」にチェックインして、夕食に出かけた。散々迷った挙げ句、「まるさん屋」にした。ここは3回目だった。かつてM会で来たもののあまりいい印象はなかった。カウンターで刺身丼を食べた。もう刺身の旨さがわからなくなっていた。店どうこうじゃなくあんまりだった。疲れていた。
 ホテルではブログを打ち続けていた。分量が多くまったく終わる気配がなかった。こんなに書いたのは尖閣以来かな。素晴らしい一日だったということでいいのかな。