びーの独り言

どこいくの?どっか。

単純な脳、複雑な「私」

単純な脳、複雑な「私」

単純な脳、複雑な「私」

 Tさんから貸してもらった。脳科学の話。昔レビューした「脳のなかの幽霊」が思い出された。この著者のことは全く知らなかったが、読後はただただ敬服というか。これで1学年しか違わない。世の中には凄い人がいるんだな。3回読んだ。自分でも買おうかと思ってる。
 脳と認識の話。常々、自論めいたもんがぼんやりとあって、そういうのをいつかまとめたいな、って思ってた。この本はそういうのを全て含有してて、さらに先の世界まで説明していた。そんな危険な試みをこの人は明るくやってのけ、しかも高校生相手に講義とは。
 最初に「物事には相関関係はあるけど、因果関係はわからない」から始まる。例えば、薬を飲んだから病気が良くなったかどうかはわからない。もしかすると、飲まなくても良くなったかもしれない。私たちが勝手に薬が効いたと思いこんでるだけだ。「Aという原因があって、Bという結果がある」ということは証明不能であり、そこには「AとBとは相関がある」としか言えない。これは、この先のページに書いてることも本当かどうかわかりませんよ、みたいな布石なのだろうw。
 脳の快楽を感じる部位は、恋愛でも麻薬でも反応する。身体の痛みを感じる部位は、心の痛みにも反応する。熱さを感じる部位は唐辛子に反応し、冷たさを感じる部位はミントに反応する。本来違うと思ったものでも実は脳の同じ部分が反応しているのだ。脳のどの部分が反応しているか調べることによって、ウソ発見機も作れるし、愛情があるかどうかもわかる。これを脳科学ハラスメントと名づけている。あの人の脳を覗いてみたいw。
 自分ってのは脳の認識が全てなのだが、無意識の部分も結構影響してる。サブリミナルの実験でいろいろなことが確かめられている。目には見えてるが、意識はしていない、けれど、正しく反応できる。それが無意識でわかってるということ。意識はしてないけど、身体は反応してるということ。身体が大事だということを表してる。吊り橋効果では、吊り橋のドキドキ感を恋愛のドキドキ感と勘違いする。最初に身体の反応があって、それを脳が間違って認識する。身体を動かすことによって気分がよくなるのもそういうことなんかもしれない。
 「たとえば、足の裏が痛いと思ったときに、その原因を探ろうとすることは、生存するうえで有利だよね。だって痛いのにそのまま放置したら危険だ。「痛いな」と感じたら、「なぜ痛いのか」という理由を探索することは、命を守る大切な行為だ。−(略)−でもね、この欲求に要求されるレベルは、「当面の状況がうまく説明できればよい」という程度のもの。だから、強引に作話して辻褄を合わせるという滑稽な側面もまた生まれてしまう。」
 手首を動かす実験。脳の活動を測ってわかったことは、まず脳が準備をする、次に動かそうと思う、次に動いたと感じる、最後に脳から動かせと指令が出る。自分の認識と実際の動きには差があるし、前後が入れ替わっている。錯覚という現象からわかるのは、脳は未来を予想している。例えば、あの辺りにボールが飛んでくることを予想する。眼鏡を新調したとき、すぐは見え方に違和感を感じるが、やがて脳は調整する。認識の中では時間感覚までもが歪められる。
 構造に揺らぎを入力すると創発が起きる。ランダムに思える信号も構造が出力の方向を決める。複雑に思える身体もそういうふうに考えると案外単純らしい。構造が決まれば方向が決まるとは、まるで企業や社会のようだ。
 カタログのカタログの例え話にあるラッセルのパラドックス。リカージョン(入れ子構造)を考えれば、絶対に矛盾が生じる。もしかすると、人間の謎は人間には解けないのかもしれない。科学はプロセスを楽しむものだから、永遠に楽しみは続くのかもしれないと結んでいる。
 この本は人間をよく描写していると思われる。私が独り言を書いてるのが全く無駄になるw。それは怖いくらいにだ。こんなことを書いていいんだろうか?生物とは何か?自由とは何か?意志とは何か?最後にリカージョンで〆るなんて!私は世の中には知らなくてもいいことがあるんだと思ってる。知らぬが仏という諺もある。知ることで殺される人もいる。良書だ。けれど、簡単にはお薦めできない。それなりの覚悟が必要。
 数学的に人生を記述すれば、人が生きてること自体が偏りだと私は思ってる。数学が対称を基本とするなら、デフォルトでは生きてもないし死んでもいない。何もないところに何かあるということは、何かが揺らいでいて非定常な状態なわけで。無理矢理取り出してる交流電流みたいなもんだ。それから、世界は自分の認識が全てだと思っている。その認識がどこから来たかというと、実は他人の受け売りだと思ってる。大学友人Uが「受け売りがばらついてるから、それが個性じゃないの」って言ってた。だから、年をとれば平均化されるのかもしれない。結局のところ、人間ってのはよく言われるところの次世代に繋いでいく存在ではなくて、ただ快楽に溺れる存在なのかもしれない。自分が自分は幸せだと思い込めばそれでいいのかもしれない。